第5話
そこからどれくらい逃げたのか分からない。
泣きながら走って、何度か転んで、それでも感染者に見つからないよう必死に逃げ続けた。
気がつけば、私は学院の地下へ迷い込んでいた。
「ここ……どこ?」
少なくとも、私の知っているゲームには存在しない場所だ。
白く無機質な壁に、硬質な金属製の床。
天井を照らしているのも、この世界で一般的な魔石灯ではなく、前世で見慣れた白い照明だった。
「もう完全に別ゲームじゃない……」
半泣きになりながら、薄暗い通路を進んでいく。
すると突然、どこからか男の声が聞こえた。
「おや、僕以外にもここに来れる人がいるなんて」
「ひっ!」
飛び上がって声のした方を見る。
開け放たれた部屋の奥で、一人の男が椅子に腰掛けていた。
紫がかった黒髪に細い眼鏡。こちらを見て楽しそうに笑っている。
「エリオット……」
「へえ。僕のことを知ってるんだ? 光栄だね」
魔術師エリオット。
学院一の天才と呼ばれる魔術師であり、このゲームの攻略対象の一人だ。
いつも飄々としていて、何を考えているのか分からない。
魔術の研究となると周囲が見えなくなる危ういところもあるけれど、主人公と出会ったことで少しずつ変わっていく――そういうキャラクターだった。
何より、今の彼は正常に見える。
「よかった……」
「何が?」
「まだ人間だから」
「面白い挨拶だね」
もう攻略対象が普通に喋っているだけで感動できる。
「ねえ、今何が起きてるか分かる?」
「人々がどんどんおかしくなってゆく現象のことを言っている?」
「そう、みんなが凶暴化して、普通の人を襲い出す現象のことよ」
「見ての通りだよ」
「見ても分からないから聞いてるの!」
「感染症が流行してるんだよ」
「これをただの感染症と一緒にしないで!」
「ふふふっ」
エリオットは楽しそうに笑っている。
こんな状況でもいつも通りなのが、頼もしいような、ものすごく不安なような、複雑な感情に呑まれる。
「治す方法を知っている?」
「今のところない」
『今のところはない』
その言葉に引っ掛かりを覚える。
『知らない』や『わからない』ではないのだ。
このゾンビ化現象がいつ始まったのか正確なところは分からないけれど、少なくとも昨日まではこんな騒ぎにはなっていなかった。
それなのに、彼はすでに治す方法の有無を知っている。
「……原因は分かる?」
慎重に尋ねると、エリオットの笑みが少しだけ深くなった。
「知りたい?」
「当たり前でしょ!」
「じゃあ見せてあげる」
エリオットは椅子から立ち上がり、部屋の奥にある扉を開いた。
扉の先は研究室のような空間だった。
棚には大量の薬瓶が並び、机の上には書類や見たことのない器具が散乱している。
そして部屋の中央に置かれた透明な容器の中で、黒っぽい塊がゆっくりと脈打っていた。
「何……これ」
「今回の騒ぎの原因」
「生き物?」
「菌類に近いかな」
「どうしてそんなものがここにあるの?」
「初めから、ここにあったんだよ」
妙に含みのある言い方をする。
「数日前、突然この地下施設が出現したんだ。調べてみたら、この世界には存在しない技術や薬品、研究記録が山ほど残されていた。素晴らしかったよ」
エリオットの目が輝いている。
(……まずい)
この顔を、私はゲームを通して知っている。
彼が危険な魔術研究を見つけた時の顔だ。
「まさか……」
「試してみたくなるだろう?」
「ならない!」
「そう?」
「これ、あなたがばらまいたの?」
「人聞きが悪いな。ばらまいたわけじゃないよ。培養して、魔力を与えた場合にどんな反応を示すのか調べていただけで――」
「それをばらまいたって言うの!」
「失礼だなあ」
悪びれる様子すらない。
ふと、机の上に開かれた記録帳が目に入った。
そこに記されている日付を見て、息を呑む。
惨劇が始まる三日前だった。
「……最初から知ってたのね」
「うん」
「これに感染したら、みんながあんなふうになるって?」
「そこまでは知らなかった」
「でも、危険なものだって分かってたんでしょ?」
「まあね」
彼の態度に腹が立ち、エリオットを睨みつけた。
「エリオット」
「何?」
「最低」
「傷つくなあ」
口ではそう言っているけれど、全然傷ついた顔をしていない。
「でもね、これは本当にすごいものなんだよ」
エリオットがこちらへ近づいてくる。
「何がすごいのよ」
「死んだ神経を再起動させるんだ」
うっとりとした様子で告げられた言葉に、ぞっとした。
「研究を続ければ、死そのものを越えられるかもしれない」
「越えてない! ゾンビになってるだけ!」
「ぞんび?」
「こっちの話!」
「君は僕にない知識がありそうだし、とても興味深いね」
エリオットは笑いながら、さらに距離を詰めてくる。
「ちょっと、近づかないで」
「どうして?」
「まさか、あなたも感染してるんじゃないでしょうね」
言った瞬間、エリオットが足を止めた。
そして、にっこりと笑う。
「さすが」
「……え?」
「気づいた?」
エリオットが袖をまくる。
そこには黒ずんだ傷があった。
「嘘でしょ……」
「自分で試すのが一番正確だからね」
「馬鹿なの!?」
「よく言われる」
「自分なら感染しても平気だと思ったの?」
「もちろん」
「何その自信!」
「天才だから」
「最悪!」
呆れて怒鳴った、その直後だった。
エリオットの瞳が一瞬、不自然に揺らいだ。
笑みが消え、身体がぐらりと傾く。
「……あれ」
「エリオット?」
「思ったより……早いな」
「ちょっと、大丈夫!?」
反射的に近づこうとして、すぐに足を止めた。
エリオットは机に手をつきながら、苦しそうに呼吸を繰り返していた。
「エリオット!」
「……君、逃げた方がいいよ」
「え?」
「僕がまだ……僕でいるうちに」
ゆっくりと顔を上げる。
さっきまで理知的な光を宿していた瞳は白濁し、もうまともに焦点が合っていない。
それでもエリオットは、私を見て笑った。
「君のことを……もっと知りたいんだ」
その言葉に、別の意味で背筋が凍った。
知っている。
エリオットルートで、彼が主人公への恋心を自覚したあとに囁く台詞だ。
前世では甘く聞こえたその言葉を、今のエリオットは白く濁った瞳で私を見ながら口にしている。
「いやああああ!」
叫んだ瞬間、エリオットが飛びかかってきた。
「ぎゃあ!」
咄嗟に身をかわし、研究室から飛び出す。
背後から足音が追って来る。
その音を聞きながら廊下を走り、最初に見つけた角を曲がった。
けれど、その先に道はなかった。
「嘘でしょ!」
引き返そうと振り向けば、すでにエリオットがすぐそこまで迫っていた。
逃げ道はない。
(ど、どうすればいいの~!!)




