オトとイト
ひゅうと冷たい風が頬を撫でる。うとうとしていたオトは、寒さに目を覚ました。彼は落ち葉と土にまみれて、仰向けになっていた。指先が冷たい。灰色の空を隠すように、冬でも葉を落とさない大きな木が枝葉を広げている。あれは、あの葉はシイの木だ。オトは、ぼんやりとした頭でそんなことを考えた。起き上がろうと身体を起こすと、ぎゅうっと引っ張られるように足が痛んだ。それで思い出した。
昼間、彼は弟のイトと共に、山バシを探して山を駆けていたのだ。この時期の山バシは、丸々と太ってうまい。しかし、なかなか素早い鳥で、仕留めるのは至難の業だ。先日こいつを射とめたときは、大人の狩人達から、大したもんだ、もう一人前の狩人だと褒められて、得意になったものだ。
今日も、立派な山バシが山の斜面に向かって飛んで行くのが見えたので、夢中で追いかけた。いつも来ない深山まで来てしまっていたが、あと少しで矢が届くと、弟が遅れているのもいとわず、深追いしてしまったのだ。
ついに獲物を追い詰め、射止めた彼は、意気揚々とそれを拾いあげた。しかし、落ち葉に滑り、斜面を滑り落ちてしまった。そして、大きなシイの木にぶつかったと思いきや、その捻れた木の根の間に挟まってしまったのだった。
引っ張ったり、身を捩ったり、じたばたしてみたが、痛いばかりで、木の根はより強く、オトの足をくわえこむようだった。ナタで切りつけても、びくともしない。硬い木の根は冷たく、骨身まで痛みが沁みてくるようだ。
しんとした林の奥からふいに、くぐもったフクロウの声が聞こえて、オトはぎくりとした。見上げると、重なった枝葉の向こう側、わずかに見える空が茜に滲んで見えた。もうすぐ日が暮れる。オトは、木の枝が、自分を捕まえようとかがみ込んでくるように思えて、慌てて視線を落とした。
黒茶けた冷たい土の上には、羽を散らした鳥が落ちている。先ほど射止めた獲物だ。縞模様の長い尾羽と、白い冠羽を持つ、美しい鳥。右翼の付け根に矢が刺さっている。よく太っていて、こいつを持ち帰ったら、きっと母ちゃんも褒めてくれて、クライブ達も喜んでくれるに違いなかったのに。
そう考えると今は逆に虚しくて、オトは、山バシから目を逸らした。手で、ごしごしと腕をさする。身体は、芯まで冷えてしまっていた。このまま、見つけてもらえなかったらどうなるのだろう。
「イトー!おおーい!イトー!」
何度目かの声を上げてみる。真っ黒な林は少年の叫びを飲み込んで、静まり返っているだけだ。ほとほと疲れてしまっていた彼は、ついに泣き出してしまった。いつの間にか、雪が降り出していた。
その頃、イトは松明を手に山を登っていた。行く手の木々の向こうにも、いくつか松明の灯りが見える。もうじき日が落ちる。遭難者が何人も出るとやっかいなので、こうして皆で松明を持ちながら、山を上に向かって捜索していくのだ。
少年の寒さに赤らんだ頬を、炎が更に赤く染めている。息を大きく吸い込むと、肺がきんと冷えるのを感じた。
「オトー!おーいオトー!」
ほうぼうから呼び声が聞こえる。大声を出すのに慣れていないイトも、掠れた声で双子の兄を呼びながら歩いた。彼は、毛皮のフードマントを着て、雪道にも強いカンジキを履いている。雪の薄く積もった地面を、ぎゅっと踏みしめた。先程から降り出した雪が、勢いを増してきた。どこかで凍えているかもしれない、オトのことを思うと胸がきゅうとなった。
太陽が雲の影に入ったのだろう。急に薄暗くなった森は灰色で、その合間に見え隠れする松明の火は幻のようだ。見上げると、枯れた木々の隙間から見える白刃山の白い峰が、夕日を受けて赤く輝いていた。イトは、じりじりとした気持ちでそれを見上げた。
早く、早く見つけてやらないと。寝袋も食料もなく冬の山で一晩を過ごすなんて。オトが死んでしまったらどうしよう…。
イトは足を早め、傍の枝を掴んだ。身体を引き上げようと力を込めると、かしいだ枝から、積もったばかりの重たい雪の塊がどさりと落ちた。
もがくようにして雪を振り払ったイトは、松明が消えてしまっているのに気づいて、口をぎゅっと結んだ。急ごうとする程に、足取りが遅くなるようだ。深く息を吐く。落ち着け。山で自分を失ったら、命はない。狩長のゼトや、父にそう教わったのを思い出していた。
「おおーい!誰かあ、火を分けてくんれー!」
とにかく、松明がないのはまずい。誰かに火をつけて貰わなければ。
「おおーい!おーい!」
しかし誰の返事もない。不思議に思って、イトは木々の間に松明の明かりを探した。先程まで近くを歩いていたはずの、仲間達の灯りが見えない。ぐるりと見回してみる。前にも後ろにも、人の気配がなかった。どうして?さっきまで、皆近くを歩いていたのに。
斜面を登りながら、何度か呼びかけたが、やはり返事はなく、誰の姿も見えない。少年の声は雪にかき消されてゆくばかりだった。ザクザクと雪を踏み分ける、自分の足音だけが聞こえている。木々の中に目を凝らしても、仲間の火は見えない。先程、落ち着こうと思ったばかりだというのに、イトはまた胸がドキドキしてきた。もしかして、はぐれた?
更に足を早めようとして、彼はつまずき、立ち止まった。カンジキの紐が緩んでいた。歩みを止めると辺りはしんとして、もう自分の他は誰もいないのではないかと思った。
しゃがんで、紐を結び直す。その手に、雪が降りかかる。先程までうっすら見えていた黒い地面は、もう白い雪に隠れてしまっていた。彼は焦りと寒さに手が震えた。自分まで迷ってしまったのでは、オトを助ける所ではないではないか。
イトがやっと紐を結び直して、立ち上がった時、風の中で、声が聞こえたような気がした。
「オト!?」
思わず声を上げる。ごうと風が吹き、雪風でフードが脱げてしまったが、イトは気にも留めなかった。木々のざわめきの間に、やはり誰かに呼ばれている気がする。
「オト!どこだぁ!?」
彼は声をかぎりに叫んで、歩き出した。ギュウギュウと雪を踏み締め、呼び声の方へと急ぐ。雪の積もった枝をザブリと泳ぐように掻き分けると、急に視界が開けて、イトは立ち止まった。谷間に出たのだ。ちょっと、どきりとする高さだった。
「おおい、オトー!」
「おおい、オトー」
枯れかけた声で呼ぶと、向こうから同じ声が呼び返した。やまびこだ。イトはがっかりした。ずっと呼びかけながら歩いていたから、自分の声のやまびこを、オトが呼んでいると思ってここまできてしまったのだ。
少年は、途方に暮れて木の根元に座り込んだ。完全に迷ってしまった。崖の下には乾燥したつる草がいっぱいに繁っている。谷間から吹く風は冷たく、ざわりと木々が揺れる度に、黒い幹の間に何かがちらつくように思って震えた。
少年はため息をついて、もたれた木を手でなでた。それは、背の高いミズナラの木だった。秋の間、オレンジに色付き、短い間、山々を賑わせる。燃えるような木々の間をオトと一緒に駆けたのは、ついこの間のことだ。
今は、枯れた葉が数枚残るのみで、痩せた手を空に突き出しているように見える。この木に登って、辺りを見回してみようか。
日は沈んだものの、雲はまだ暗い紫にたなびいている。朝まぐれと夕まぐれに、南の空を見てはならない。イトは、掟のことを思い出して、少し迷った。空を仰ぐと、木々の向こうに、白刃山の高い峰が真っ黒に突き出ている。ということは、あちらが北の方角だ。
大丈夫。南の方を見ないように気をつければ良い。
この土地の自然は厳しい。見つけてやらなかったら、オトはきっと死んでしまう。いつも、気弱なイトを引っ張って、励まして、共に駆けてくれる双子の兄。たまに喧嘩もするけど、イトはオトのことが大好きなのだ。
イトは、涙を拭って、きっと顔を上げると、ふしくれだった木の幹を、強く掴んだ。




