オトとイト2
雪の積もり始めた木々の上に、空が灰色に重くのしかかっている。夕闇沈んでゆく林の中、大きなシイの木の下の暗がりで、オトは、木の皮を削ぎ落とす作業に没頭していた。ナタの刃を両側からしっかり持ち、力を込めて、薄く皮を削いでいく。
彼を捕まえている木の根は太く、とても断ち切ることはできない。しかし着火用の紅魔鉄がポケットにあるのを思い出し、なんとか火を起こせないかと考えたのだ。魔力のないオトでも、紅魔鉄を打ちあせて火花を散らせば、火を起こすことができる。もしもの為にと持たせてくれていた父に感謝した。
山バシを焼いて食べられたらいいのだが、手の届く範囲の小枝や木の皮では難しいだろう。それでも火を起こせば暖が取れるし、誰か煙に気づいてくれるかもしれない。
オトは時折顔を上げると、遠くまで響くように、頬を膨らまして手を口にあて、ほほーぅと叫んだ。いつも、イトと山で呼び合って遊んでいるのだ。弟が聞いたら、気づいてくれるはずだ。
そうして、イトはまたガリガリやる仕事に戻った。足を挟まれた体勢では大して仕事は進まないし、痛みと寒さにくじけそうだ。でも、弟や、村のみんなが助けに来てくれる。そう信じて頑張った。
オトは夢中で木の皮を削った。くじけそうな心を紛らわせるように、一心不乱に。だから、茂みをカサカサと揺らす音が近づいて来るのに、すぐに気づかなかった。
彼のほんの近くでガサリと音がした時、心臓が跳ね上がるかと思った。弾かれたように、音の方を見た。
灰色の獣だった。オオカミだ。オトは動きを止め、緊張した面持ちで、そっと手に持ったナタを握り直した。茂みから半分ほど身体を覗かせた獣は、じっとこちらを見ている。
弓は斜面を滑った時に落としてしまった。木の根に足を挟まれて、座ったままの姿勢で、ナタ一つだけを持って獣に対峙している。
直面しているこの状況に、彼はまるで氷を飲み込んだように腹の底が冷えるのを感じた。おれは今日、死ぬのかもしれない。
オオカミがじりじりと近づく。瞳は黄色く、ギラギラと光っている。赤い舌を垂らした口元に、鋭い牙が並んでいた。姿勢を低くし、オトの様子を窺いながら、弧を描くように周りをうろつき始めた。
オトは、獣を睨みつけながら、ナタを構えた。おれを狩るつもりなのか。おれだって狩人なんだ。大人しくやられてたまるか。恐れとも怒りともつかない興奮に、呼吸が震えた。
オオカミは、低く唸ると、唐突に地を蹴った。
「わああああ!」
オトの心に火花が散った。彼は精一杯の大声を出してナタを振りかざした。
オオカミは、大きく跳躍し、オトの目の前でくわっと口を開けた。生暖かい呼気が少年の頬にかかる。
「やあーーー!!」
オトはナタを振り抜いた。平たい刃はびゅんと鋭い音を立てて空を切り、雪の積もった地面に刺さった。
オオカミが牙を突き立てたのは、少年の傍ら、すでに事切れて久しい山バシだった。
獣は鳥の肩あたりを咥えると、すぐに踵を返した。斜面を下り、あっという間に林の奥へ走り去っていく。オオカミは灰色と縞模様の羽を撒き散らしながら、みるみる小さくなってゆく。
オトは、目を見開いたまま、しばらく荒く息をしていた。彼の命を脅かした獣はあっという間に遠ざかり、木々の向こうへ姿を消した。静寂が戻り、つい今しがたの攻防が、夢だったのではないかと思った。
彼は傍らの地面に散らばる鳥の羽を見た。最初から、鳥が狙いだったのか。命懸けの気合いでナタを振り回した自分が、急に滑稽に思えて、彼は力無く笑った。
逃げていくオオカミの後ろ姿を思い出す。あいつ、もう冬になるのに、痩せて背骨が浮いていた。それに、一匹だった。オオカミは普通群れで生活するものだ。
一匹狼というと、孤高のようだが、ようは群れからはぐれた個体だ。大抵は、他のオオカミ達から縄張りを追われ、みすぼらしく痩せ細っている。大抵はそのまま飢え死にするか、人里に降りてきて人に狩られるかだ。
オトは深く息を吐くと、ナタを強く握りしめたままなのに気づいて、指を伸ばした。強張った指先がじーんとした。
「狩られなくて、良かった…。」
思わずそう呟いてみると、ようやく命が助かった実感がしてきて、少年はまた少し泣いた。
ごうと雪風が渦を巻く。ひときわ強い風が吹いて、ミズナラの枝がしなった。イトは振り落とされないよう、しっかりと幹にしがみついた。
フードと首巻の間から吹き込む雪に顔をしかめながら、灰の空に黒く突き出た峰を見上げる。エスト島の最高峰としてそびえる霊峰、白刃山。力強くも厳しい、シバの自然の象徴。今、その姿はイトに勇気を与えた。あれが視界に入っている間は、大丈夫。南の空を見る心配はない。
葉を落としきったミズナラの木は骨のようで、下から見ると頼りなく見えたが、掴んだ枝は強く少年の身体を支えた。灰色の表皮の奥に、春にまた芽吹く為の生命力を感じる。イトは、それに励まされるようにして木を登った。
高く登りきってしまうと、ミズナラの木は、周りの木々よりも頭ひとつ抜けて高いことがわかった。遮るもののない木の上で、彼はまるで宙に浮いているような心地がした。
周りがよく見渡せるのは良いけれど、今はまさしく夕まぐれ。南を見ないようによく気をつけないといけない。そう思うと、頭の後ろがむずむずするように感じた。
慎重に辺りを見回すと、崖のずうっと下の方、木々の間に小川が見える所があった。もしかするとあれは、よくオトと釣りに行く川辺ではないだろうか。だとすれば、そんなに遠く来てしまった訳ではないのかも。
少しホッとしたイトは、目を凝らして、川の方へ下れそうな道を探した。この崖を降りるのは無理だろうから、回っていけそうな道はないかしら…。
ふいに、イトはピタリと動きを止めた。誰かに呼ばれたような気がしたのだ。
…イト…。
やっぱり。今度はやまびこではない。今、イトは声を出していないのだから。風の音に混じって、彼の名前を呼ぶ声が聞こえる。
「オト?」
イトは、つぶやくように言った後、もう一度大きな声を出した。兄が、近くにいるのかもしれないと思った。
「オトーっ!」
「オトーっ!」
次はやまびこを伴いながら、少年の声が谷間に響いた。彼は、兄の返事が聞こえやしないかと、風の中に耳をすませた。ひゅうひゅうと風の音の中に、木々のざわめきが聞こえるだけだ。
もう一度呼んでみようか。そう思って大きく息を吸い込んだ、その時。
「イト。」
頭のすぐ後ろで声がした。兄の声ではなかった。その呼び声は、優しく囁くように、しかしはっきりと彼の名を呼んだのだった。




