誰のための冬道か
エステルは白樺小屋の戸を開けた。冷たい風が吹き込み、暖炉の火が揺れる。戸口にはベルトランが立ち、その後ろに毛皮の外套を着たギュスターヴと、組合の警備兵が五人並んでいた。
「やっと出てきたか。随分と手間を掛けさせる」
兄はエステルの肩越しに小屋の中を覗き、旅人たちを見て顔をしかめた。
「勝手に人を入れたのか。俺の道を使わず、俺の許可もなく」
「母様の小屋よ。ここにいる人たちは、あなたが救助門を閉じたせいで凍えかけたの」
「大げさだな。有料道へ回れば済んだ話だ」
ギュスターヴが一歩前へ出た。柔らかそうな手袋をはめた男は、雪の上を歩くことに慣れていないらしく、警備兵に腕を支えられている。
「エステル嬢、もうおやめなさい。明日から私の妻になる人が、こんな薄汚れた小屋で男たちと夜を過ごすなんて、聞くに堪えません」
「私はあなたと結婚しません」
「気が動転しているのでしょう。婚約者に逃げられたと聞きましたよ」
「逃げていないわ。兄上が谷へ捨てたの。レオンはここにいる」
ギュスターヴの表情が固まった。ベルトランはすぐに口を挟んだ。
「こいつは嘘をついている。男を取り戻したくて、俺に罪を着せようとしているんだ」
「だったら、レオンの前で言って」
エステルが身を引くと、レオンが長椅子から立ち上がった。片足をかばい、杖を握っている。額の傷はオルガが包帯を巻き直したばかりだ。彼はエステルの隣まで歩き、ベルトランを見た。
「俺を縛って硝子谷へ落としたのは、あんただ。警備兵三人も見ている」
「証拠は?」
ベルトランは平然と答えた。
「落ちたと言うなら、勝手に足を滑らせたんだろう。救護隊長のくせに情けない」
「この縄の金具、あなたの警備兵が切ったのよ」
エステルは腰帯から真鍮の金具を取り出した。兄は一瞬だけ目を細めたが、すぐに笑った。
「そんなもの、いくらでも拾える」
「そうね。金具だけでは足りない。だから、あなたに聞くわ。どうして今、ここに来たの?」
「お前を連れ戻すためだ」
「私がここにいると、誰から聞いたの?」
「警備兵に決まってるだろう」
「谷へ落としたはずのレオンが生きていると、誰が教えたの?」
ベルトランは答えなかった。エステルは兄から目を逸らさず、続けた。
「旅人が門の前で凍えていても、あなたは来なかった。それなのに、レオンが生きていると聞いたら、夜道をすぐに来た。しかも戸の外で、私の返事を聞くより先に『その男を差し出せ』と言ったわ」
「くだらない言いがかりだ」
「じゃあ、もうひとつ。どうして救助門を閉じたの?」
「組合長の判断だ」
「雪の夜に門を開けておくのは、父様の代からの決まりよ。救護隊も旅人も、命が危ないときは通していい。兄上はそれを変えたの?」
「俺が組合長だ。俺が決める!」
怒鳴り声が小屋の中まで響いた。暖炉のそばにいた少女が母親へしがみつく。エステルは兄の顔を見たまま、低い声で言った。
「組合長は、道を守る人でしょう。人を閉じ込める人じゃないわ」
ベルトランは舌打ちし、ギュスターヴへ向き直った。
「この娘は昔から頑固でね。少し脅せば分かると思ったが、どうも甘やかしすぎたらしい」
「それなら、正式に婚約を決めてしまいましょう」
ギュスターヴは外套の内側から紙を取り出した。署名欄のある婚姻承諾書だった。
「この場で名前を書けば、私の父が冬道事業へ資金を出します。あなたの山小屋も立派な宿泊施設に改築できますよ。今なら、あの救護隊長の命も見逃して差し上げます」
エステルは紙を見なかった。
「人を殺しかけておいて、命を見逃すと言うの?」
「言い方に気をつけなさい。私たちはあなたの将来を考えている」
「私の将来に、あなたは入っていないわ」
ギュスターヴは笑みを消した。彼はエステルの腕をつかもうとしたが、レオンが杖を前へ出して遮った。
「彼女に触るな」
「怪我人は引っ込んでいろ!」
ギュスターヴが杖を蹴ると、レオンは体勢を崩した。エステルはすぐに彼の腰を支え、男を睨んだ。
「あなたこそ下がって。私はレオンを選んだの。あなたが何を差し出しても変わらない」
ベルトランが苛立ったように叫んだ。
「兵! その男を捕まえろ。娘は馬車へ連れていけ!」
警備兵が動いた。だが、小屋の中からジャンとオルガが出てきて、戸口に並ぶ。続いて、救助された商人や御者たちが姿を現した。誰も武器は持っていない。それでも、人々は逃げずに兄を見ていた。
「俺たちを有料道へ行けと言ったのは、あんたの兵だ」
商人が言った。
「車輪が壊れた馬車に子どもがいたんだぞ。それでも金を払えと」
「組合長なら、助けるのが先じゃないのか」
御者が続けた。
「金を持ってるかどうかで、子どもを見捨てるのか!」
ベルトランは顔を赤くし、警備兵を振り返った。
「何をしている! こいつらを黙らせろ!」
兵の一人が剣の柄へ手を掛けた。だが、後ろから別の声が飛んだ。
「やめろ!」
雪道を走ってきたフランツが、兵たちの間へ割って入った。彼は息を切らしながら、エステルとレオンを見た。
「お嬢様、隊長。無事で……」
「フランツ、お前は谷を探せと言ったはずだ!」
ベルトランが怒鳴った。フランツは肩を震わせたが、目を逸らさなかった。
「谷へ行きました。隊長を縛っていた縄も、雪橇の跡も見ました。あの場所から落ちた人が、自分で上がれるとは思えません」
「お前まで俺に逆らうのか!」
「私は組合の警備兵です。組合長の私兵じゃありません」
フランツは剣を抜かず、ほかの兵たちへ向き直った。
「中に子どもがいる。今ここで人を傷つけたら、俺たちは何を守っていることになる?」
兵たちは動かなかった。ベルトランは一人ずつ睨みつけ、最後にエステルへ向き直った。
「お前が全部悪いんだ。レオンなんぞと結婚しようとするから、俺がこんな目に遭う!」
「私が誰と結婚するかは、私が決めることよ」
「お前が山小屋を譲らなければ、冬道の事業が潰れるんだぞ!」
「だったら、私のものを奪う前に、組合の人たちへ相談すればよかったでしょう」
ベルトランは答えず、腰から大きな鍵束を外した。
「分かった。そんなに俺の道が嫌なら、二度と使わせない。救助門だけじゃない。町へ続く門も閉めてやる。お前たちはここで春まで暮らせ!」
兄は警備兵の間を押しのけ、坂道へ向かった。エステルはレオンをミナに託し、すぐに追いかけた。
「待って!」
「来るな!」
ベルトランは振り返り、鍵束を雪の上へ投げつけた。エステルが足を止めた隙に、兄は松明を持った兵の腕をつかんだ。
「火を寄越せ!」
兵が抵抗するより早く、ベルトランは松明を奪った。彼は小屋の外壁に積んだ薪へ近づき、火を押しつけようとした。
「小屋がなければ、権利も何もないだろう!」
エステルは雪を蹴って走った。薪の手前で兄の腕へ飛びつき、松明を持つ手を両腕で押さえる。ベルトランは彼女を突き飛ばそうとしたが、エステルは離さなかった。
「放せ!」
「放さない!」
「お前のせいで、俺の事業が!」
「ここには人がいるのよ!」
エステルは兄の手首を外側へひねり、松明を雪の上へ落とさせた。火は湿った雪に埋もれ、消えた。兄がもう一度掴みかかろうとしたとき、フランツとジャンが駆け寄って腕を押さえた。
「ベルトラン組合長、これ以上は見過ごせません」
「俺を捕まえるつもりか! お前たちを雇っているのは誰だ!」
フランツは縄を取り出し、兄の両手を縛った。
「組合です。あなた個人ではありません」
エステルは雪の上に落ちた鍵束を拾った。母が交渉して設けた救助門の鍵には、小さな白樺の印が刻まれている。彼女はその鍵を握り、レオンのところへ戻った。
「門を開けてくる」
レオンは頷いた。
「俺も一緒に行く」
「足は?」
「ミナが支えてくれる。お前が鍵を回すところを見たい」
エステルは彼の手を取り、ゆっくりと歩いた。旅人たちも、警備兵も、雪の道をついてきた。救助門の前に着くと、太い鎖が木の扉へ巻かれていた。エステルは鍵を差し込み、凍りついた錠を両手で押さえながら回した。
重い音を立てて錠が開いた。
エステルは鎖を外し、ジャンと一緒に扉を押した。門の向こうには、町へ続く広い救助道が伸びている。雪に埋もれた道標を、オルガが鉄鉤で掘り出した。
「開いた……!」
リナの母親が呟いた。少女は毛布の中から顔を出し、門を見ている。
「お姉ちゃん、帰れるの?」
「帰れるよ。もう誰も、ここを閉めさせない」
エステルはそう答えたが、約束を守るにはもう一つ仕事が残っていた。兄が組合長のままなら、門は再び閉められる。彼女はレオンへ向き直った。
「町の評議員に、今夜のことを全部話すわ。私が案内した人たちにも、見たことを聞いてもらう」
「俺も証言する。あんたが道を開けたことも、ベルトランが何をしたかも」
レオンは彼女の手を強く握った。
「エステル、よくやった」
「まだ終わってないわ」
「分かってる。最後まで一緒に行こう」
エステルは彼に頷き、門の向こうへ歩き出した。
町の広場へ着くころ、空は薄く明るみ始めていた。宿屋の女将サラが人々を迎え、事情を聞いて評議員を呼びに走った。冬道組合の十二人の評議員は、救助門の封鎖と組合長の暴行について、緊急の会合を開くことを決めた。
会館には、救助された旅人たちが集まった。エステルは兄の前へ立ち、拾った金具を卓上へ置いた。フランツが縄の切れ端と、ベルトランが小屋へ火をつけようとしたことを証言する。リナの母親は、救助門で金を要求された経緯を涙ながらに話した。
ベルトランは最後まで言い逃れようとした。
「俺がいなければ、この組合は潰れる! 通行料を増やして何が悪い!」
エステルは彼を見た。
「人を救う道を閉じてまで、増やすお金に何の意味があるの?」
「お前には経営が分からない!」
「分からないのは、兄上よ。今夜あの門が開いていれば、十八人は吹雪の中で待たずに済んだ。レオンも谷へ落とされずに済んだ。あなたが欲しかったのは道じゃない。道を閉める権力でしょう」
評議員たちは互いに顔を見合わせた。議長を務める老職人が、組合の規約を読み上げた。救助道を故意に閉鎖し、人命を危険にさらした組合長は、評議会の議決で即時解任できる。冬道の独占通行権も、その時点で組合の共同管理へ戻る。
十二人の評議員が、一人ずつ賛成を表明した。反対はなかった。
「ベルトラン・ルヴィエ。あなたを冬道組合長から解任し、独占通行権を剥奪する。組合の資金と鍵は、今この場で共同管理へ移す」
議長の言葉に、ベルトランは椅子を蹴って立ち上がった。
「俺の道だ! 父から継いだんだぞ!」
「父様が継いだのは、人を助ける仕事よ」
エステルは兄を見据えた。
「あなたが閉めた門は、私たちが開けた。もう、誰もあなたに鍵を渡さない」
フランツがベルトランを連れて会館を出た。評議会は、谷での殺害未遂と小屋への放火未遂について町の司法官へ引き渡すことも決議し、その場で身柄を移した。ギュスターヴは会館の出口で立ち止まり、縛られたベルトランへ吐き捨てた。
「婚姻の話は白紙だ。父の資金も出させない。人殺しに金を貸す家だと思われたくないからな」
ベルトランは言い返そうとしたが、フランツに促されて外へ出た。組合長の地位と独占通行権は既に失われ、縁談による資金調達の道も断たれた。
会館の戸が閉まると、エステルはようやく息を吐いた。レオンが隣に立ち、彼女の手を握る。
「これで、お前の山小屋は守れる」
「ええ。あなたも帰ってきた」
「それで、花嫁さん」
レオンは少しだけ照れたように笑った。
「俺たちの結婚式は、どうする?」
エステルは彼の包帯を見てから、顔を上げた。
「まず、お医者様へ行くわ。その次に決めましょう」
レオンは不満そうな顔をしたが、彼女の手を離さなかった。




