二人で選ぶ道
通路の出口に立つ男は、エステルの知っている警備兵だった。フランツという名の若者で、父が組合長だったころは、雪に埋まった旅人を背負って運んだこともある。
「お嬢様、そこにいるのはレオン隊長ですね」
男は剣を抜いていなかった。しかし、その背後には別の兵が二人いて、松明をこちらへ向けている。
「そうよ。兄上に殺されかけたの。道を空けて」
「組合長の命令です。お二人とも屋敷へお戻りください」
「戻ったらレオンをどうするつもり?」
フランツは答えなかった。後ろの兵が苛立ったように口を開く。
「女の話を聞くな。隊長を引き渡せ。組合長は生きていたら厄介だと言っている」
「黙れ!」
フランツが振り返った。その一瞬に、エステルはレオンの体を石壁の裏へ押し込んだ。出口の向こうにいる兵の位置を確かめ、腰帯から縄を解く。石壁の上には、古い見張り小屋の屋根から落ちた雪が厚く積もっていた。
「レオン、私の後ろへ」
「何をする気だ」
「少しだけ、道を借りるの」
エステルは鉄鉤を雪の下に差し込み、屋根の残骸を支える木片へ引っ掛けた。腐った板は小さく軋んだ。引けば、雪が通路へ落ちる。人を傷つけるほどの量ではないが、灯りを遮るには十分だった。
「フランツ! 下がって!」
彼が身を引くのを見て、エステルは縄を引いた。板が折れ、積もっていた雪が一気に崩れた。兵たちが叫び、松明の火がひとつ消える。エステルはレオンの腕を肩へ回し、石壁の内側へ戻った。
「おい、そっちは行き止まりだぞ!」
追ってくる声を背中に受けながら、エステルは壁の根元を探った。雪の下に、子どものころ指を切った鉄の輪がある。輪をつかんで引くと、古い木蓋が持ち上がった。下には、薪を運び込むための浅い地下通路が続いていた。
「こんなところに入口が」
「見張り小屋の炭置き場よ。母様が教えてくれた。あなたが先に降りて」
「俺は足が……」
「段は三つだけ。私が支える」
レオンは壁に手をつき、右足から降りた。エステルは腰帯を持って体を支え、最後に木蓋を閉めた。暗闇の中で二人の呼吸が重なる。上から兵が走る音がして、木蓋の上を雪が踏み固められた。
「ここにはいない! 崖へ戻ったんじゃないか!」
「縄を探せ!」
声が遠ざかるまで、エステルはレオンの背中へ手を添えていた。通路は立てるほどの高さがなく、石の壁から古い炭の匂いがした。レオンは片膝をつき、しばらく動かなかった。
「痛む?」
「少しな。だが、さっきよりはましだ」
「顔色は悪いままよ」
「お前の顔だって真っ白だ」
「私は雪のせい」
「嘘が下手だな」
エステルは返事をしようとして、唇を噛んだ。見つけたときの彼の姿が、まだ離れない。あのまま朝になっていたらどうなったのか。兄が彼を谷へ捨てたと聞いたとき、怒りより先に足がすくんだことを、今になって思い出した。
「怖かったの」
小さな声が出た。レオンが顔を上げる。
「あなたの返事がなかったら、と思ったら。崖を降りる前、足が動かなくなりそうだった」
「エステル」
「私、雪道は怖くないと思ってた。何度も歩いて、どこが危ないか知ってるから。でも、あなたがいなくなるのは……」
言い終える前に、レオンが腕を伸ばした。彼はエステルを引き寄せ、額を彼女の肩へ預けた。
「俺も怖かった。お前の名前を呼んでも返事がなかったら、どうしようって」
「私、ちゃんと来たでしょう」
「ああ。来てくれた」
レオンは少し身を離し、彼女の顔を見た。
「助けられる側になるのは、格好悪いな。いつもお前を守りたいと思ってたのに」
「格好悪くなんかない。私、あなたに助けられてばかりだったもの」
「そうだったか?」
「最初の冬、母様の小屋の屋根が壊れたときも。父が亡くなって、何も決められなくなったときも。あなたは私が自分で決めるまで、隣にいてくれた」
「それくらいしかできなかった」
「それが欲しかったの。誰かに答えを決めてほしいわけじゃなかった」
エステルは彼の冷たい頬に触れた。
「だから今は私があなたを連れていく。次に私が困ったら、また助けて」
「約束する。何度でも」
彼は彼女の手を取って、指先に口づけた。暗い炭置き場で、エステルは笑った。明日の花嫁衣装は屋敷に残してきた。髪も雪で乱れている。それでも、ここにいるレオンが彼女を見つめる目は、式の準備をしていたときと変わらなかった。
しばらくして上の足音が消えると、エステルは通路の奥へ灯具を向けた。石の間に積もった炭を踏みながら進むと、反対側の出口から冷たい風が流れ込んでくる。そこは旧監視路の脇へ繋がっていた。
「この先は母様の山小屋。あと少しよ」
エステルは木戸を押した。外には細い雪道が続き、斜面の向こうに屋根が見える。母が残した三つの救助小屋のうち、一番低い場所にある「白樺小屋」だった。
小屋の戸には鍵が掛かっていなかった。中には乾いた薪と毛布があり、壁には母の字で「道に迷った人は遠慮なく使ってください」と書かれた板が残っている。エステルは暖炉へ火を起こし、レオンを長椅子に座らせた。濡れた靴下を脱がせ、温めた布で足首を包み直す。
「母様の小屋に来られたのね」
「お前が毎冬、薪を運んでいた場所か」
「ええ。兄上は無駄だと言ったけど、私は閉めたくなかった」
「閉めなくてよかった。今夜は俺が助けられた」
レオンは小屋の壁に掛かった古い木札を見た。札には、冬道組合の印が焼き付けられている。
「組合の救助門が閉まっているなら、ほかにも困っている人がいるかもしれない」
「私もそう思う。兄上は有料道へ人を回したがっている。でも今夜は風が強いわ。峠へ向かったら危険よ」
「町へ戻って評議員を集めよう。救助道の封鎖は、組合の決まりに反する。お前の父さんが残した規約なら、人命を危険にさらした組合長は解任できるはずだ」
「十二人の評議員が決めるのよね。父様から聞いたことがある。今すぐ?」
「できれば。だが俺はこの足だ。お前だけ行かせるのは……」
「私が行く。あなたはここで休んで」
レオンは即座に首を振った。
「一人で行かせるくらいなら、俺も這って行く」
「無茶を言わないで」
「お前だって同じだろう」
エステルは言葉に詰まり、やがて小さく笑った。二人とも譲らない。だからこそ、今まで何度も言い合って、折り合いを見つけてきた。
「分かった。まず近くの救護隊詰所へ知らせる。そこまでは二人で行きましょう。隊員が来れば、あなたを診てもらえるし、町へも連絡できる」
「それなら賛成だ」
エステルが水を温めていると、外から戸を叩く音がした。二人は同時に顔を上げた。エステルが鉄鉤をつかみ、戸口へ近づく。
「誰?」
「ミナです! エステルさん、いるんでしょう?」
聞き覚えのある声だった。救護隊で働くミナは、レオンの部下でもある。エステルが戸を開けると、雪まみれの若い女性が転がり込んできた。
「隊長! 生きてたんですね!」
ミナはレオンを見るなり駆け寄り、彼の顔と足を確かめた。エステルは戸を閉め、外に追手がいないか尋ねた。
「屋敷の馬番から知らせをもらいました。三本杉に繋がれていた栗毛は、あの子が迎えに行って厩舎へ戻しましたよ。町の詰所にはまだ警備兵がいて、私たちを出さないんです。だから裏の道から来ました」
「ほかの隊員は?」
「二人だけ抜け出せました。今、下の分かれ道で待っています。でも大変なんです」
ミナは息を整え、エステルの腕をつかんだ。
「北から来た旅人の馬車が、救助門の前で止められています。子どもも乗ってるのに、組合長の兵が有料道へ行けって。もう風が強くて、馬も動けないのに!」
レオンは長椅子から立とうとした。エステルは彼の肩を押さえ、ミナへ向き直った。
「何台いるの?」
「三台。全部で二十人近く。うち一台は車輪が壊れて、動かせないそうです」
「救助門は?」
「太い鎖が掛けられて、鍵は組合長が持ってる。私たちが開けようとしたら、警備兵に追い返されました」
エステルは暖炉の上に置いた母の木札を見た。あの門は、誰かを締め出すためのものではない。雪の夜に逃げ込める道を残すため、母が組合と交渉して作らせた門だった。
「鍵がなくても開けられる道があるわ」
ミナが驚いて顔を上げた。
「本当ですか?」
「母様が教えてくれた旧道がある。ただし、雪の状態を見ながら進まないと危ない。私が案内する」
レオンがエステルの手を握った。
「俺も行く。足を引きずってでも、道の状態は見られる」
「あなたは小屋で待っていてほしい。でも、ここで一人にしたらまた兄上が来るかもしれない」
「なら決まりだ。ミナに支えてもらって、俺は後ろから行く」
エステルは彼の顔を見つめた。反対したい気持ちはあったが、彼は救護隊長であり、今ここにいる誰より雪の事故を知っている。彼を危険から遠ざけるために、意見まで奪ってはいけない。
「分かった。歩けなくなったら、必ず言って」
「お前もだ。膝をぶつけたんだろう」
ミナは二人を見比べ、呆れたように笑った。
「隊長が無事で安心しましたけど、喧嘩は帰ってからにしてください」
エステルは小屋の戸を開けた。外の風はさらに強くなっていた。救助門の方角には、動けなくなった馬車の灯りが小さく並んでいる。
その灯りのひとつが、突然消えた。




