谷底で呼ぶ名前
「レオン! 私よ、エステル!」
返事はすぐにはなかった。崖の下で雪が崩れる音がして、エステルは灯具を岩の陰へ置いた。硝子谷は雪の下に黒い岩肌が露出する場所が多い。足を滑らせれば、斜面の途中にある細い段差で止まる保証はなかった。
「エステル? どうしてここに」
ようやく届いた声は、いつもの明るさを失っていた。
「迎えに来たの。今、降りるわ」
「来るな! 上の雪が緩んでいる。俺はまだ動ける」
「だったら、まず私の話を聞いて。そこは何段目の岩棚?」
短い沈黙があった。
「上から二段目だ。右に古い見張り小屋の跡がある。だが、そこへ行く道は雪で埋まってる」
「小屋の石壁は残っている?」
「半分くらいは」
「なら、左に低い松があるはず。根元に岩の割れ目があるでしょう?」
「……ある。どうして知ってるんだ」
「子どものころ、母様と雪の観測に来たの。待っていて。無理に立たないでね」
エステルは腰帯から縄を取り出し、崖の手前に露出した大きな岩へ回した。岩は地面に埋まっており、揺すっても動かない。縄の端を二重に結び、自分の体重を掛けて確かめる。手袋を締め直すと、彼女は崖へ背を向け、岩棚を目指して足場を探した。
レオンが下から叫んだ。
「お前は明日、結婚式だろう!」
「花婿が谷底にいる結婚式なんて、できないわ!」
「だから俺が上がるまで待てと言ってる!」
「待っていたら凍えてしまうでしょう!」
いつもなら、こんなやり取りのあとで彼は笑う。だが今は息を吸う音さえ苦しそうだった。エステルは返事を待たず、雪を払って足場を探した。岩の出っ張りに靴先を置き、縄を少しずつ送りながら下る。
途中で右足が滑った。膝を岩にぶつけ、鋭い痛みが走る。エステルは縄を握り直し、体を止めた。急いではいけない。自分まで動けなくなれば、レオンを連れて帰れない。
「エステル、返事をしてくれ!」
「平気! 膝をぶつけただけ!」
「平気な声じゃない。無理なら戻れ」
「無理かどうかは、私が決めるわ」
下から、短く息を吐く音がした。
「……そうだったな。お前は昔から、そういう人だ」
岩棚に足が届いた。エステルは縄を固定してからレオンのもとへ歩いた。彼は雪に半分埋まった倒木にもたれ、両手を背中側で縛られていた。左足首が不自然に腫れ、額には血の乾いた筋がある。上着は奪われ、薄い仕事着の袖が凍っていた。
「ひどい……」
エステルは膝をつき、背中の縄を切った。彼の指は冷え切っていたが、手首にはまだ力がある。エステルが外套を脱いで肩へ掛けると、レオンはその袖をつかんだ。
「お前まで冷える」
「私は中に厚い上着を着ている。あなたは一枚しかないでしょう」
「言い返す隙もないな」
「今は言い返さないで。足を見せて」
靴紐を緩めると、レオンは奥歯を噛みしめた。エステルは無理に靴を脱がせず、足首の周囲を布で固定した。救護隊に入ったわけではないが、母と山小屋を守ってきた彼女は、捻挫した人を何度も介抱している。
「立てそう?」
「右足に体重を掛ければな。頭も打ったが、意識ははっきりしてる」
「嘘をつかないで。気分が悪いなら言って」
「少し吐き気がした。今は治まった」
「治まっても、町へ戻ったら診てもらうわ」
レオンは頷き、エステルの頬へ触れようとして、冷たい指を途中で引いた。
「俺がいない間に、何があった」
「兄上が、あなたは逃げたと言ったの。明日、ギュスターヴと結婚しろって」
レオンは身を起こそうとして顔をしかめた。
「あの男……!」
「動かないで。もう信じてないわ。兄上があなたをここへ連れてきたのね?」
「直接見た。組合長の紋章をつけた警備兵が三人、俺を縛って雪橇に載せた。ベルトランは三本杉のところで待っていた。『お前さえ消えれば妹も利口になる』と言って、俺をここへ落とした」
エステルは、腰帯の真鍮金具を見せた。
「これが上にあった」
「俺の救助縄だ。抵抗したとき、金具が外れた。……よく見つけたな」
「あなたが教えてくれたのよ。雪の上には、隠せないものが残るって」
レオンは目を伏せた。エステルが彼の指を両手で包むと、男はようやく力を抜いた。
「昨日、救助道の門を見に行ったんだ。鍵を掛けられていた。冬道組合は吹雪のとき、あそこを開けておく約束だろう? 俺が抗議したら、ベルトランは有料道を通れと言った。救助を必要とする人からも金を取るつもりなんだ」
「それであなたを……」
「今夜、組合の評議員へ報告するつもりだった。お前にも話そうと思ったが、式の前に余計な心配をさせたくなくて」
「それは余計な心配じゃないわ」
エステルはレオンの胸元へ外套を寄せた。
「私に話してほしかった。あなたが一人で危ない場所へ行くなんて、嫌よ」
「すまない」
「謝ってほしいわけじゃない。私たち、結婚するんでしょう? あなたが何かを背負うときは、私にも持たせて」
レオンは少し笑った。
「俺の仕事は、重い荷物ばかりだぞ」
「だったら、半分ずつ運びましょう」
エステルは彼の額についた血を布で拭った。レオンが黙って彼女を見つめる。冷えた顔に、いつもの気安い表情が戻りかけていた。
「お前に結婚を申し込んだ日のこと、覚えてるか」
「覚えてる。山小屋の屋根を直していたのに、あなたは梯子の下から突然言ったわ」
「屋根の上にいるときに言うつもりじゃなかった。降りてくるまで待てなかったんだ」
「私も待てなかった。梯子を降りる前に返事をしたもの」
「そうだ。俺が『愛してる』と言う前に、お前が『私も』って」
「あなたの顔を見れば分かったから」
レオンは、まだ温まらない手で彼女の指を握った。
「今も同じだ。エステル、俺はお前を愛してる。こんな場所に置いていかれて、何が一番怖かったと思う?」
「死ぬこと?」
「それも怖かった。でも、お前が俺を捨てたと思い込まされることのほうが、ずっと嫌だった」
エステルは返事の代わりに彼を抱きしめた。仕事着は雪と血で濡れ、彼の肩は震えていた。それでも彼は、エステルが顔を寄せると、そっと彼女の背中を抱いた。
「私は信じなかったわ。あなたが私を置いて逃げるなんて、あり得ない」
「どうして、そこまで言い切れる」
「だってあなた、私が怒ると逃げないでしょう。いつも最後まで話を聞いてくれる。嫌なことでも、二人で決めてきたもの」
レオンは声を出して笑いかけ、咳き込んだ。エステルは慌てて水筒を取り出し、少しずつ飲ませた。
「それを言われたら、もう逃げられないな」
「逃げなくていいの。私の隣にいて」
「ずっと?」
「ずっと」
彼が身を寄せ、エステルは短く唇を重ねた。今すぐ暖かな場所へ連れていかなければならない。それでも、彼が生きていることを確かめるように、もう一度だけ抱きしめた。
エステルは崖の右側を見た。古い見張り小屋の石壁から先へ、雪に埋もれた細い通路が伸びている。母と歩いたころは、見張りが薪を運ぶために使っていた道だ。崖を登り返すより遠回りになるが、足を痛めたレオンにはそちらがいい。
「上の縄は置いていくわ。あの小屋の脇から、岩の裏へ回れるはず」
「今も道が残ってるか?」
「分からない。でも、ここに留まれば冷えるだけよ。私が先に見てくる。あなたは石壁まで歩ける?」
「お前の肩を借りればな」
エステルはレオンの右側へ回り、腰帯を外して彼の体へ巻いた。引き上げると、レオンは片足で立ち、苦痛に眉を寄せながらも彼女に体重を預けた。二人は倒木から石壁まで、数歩ずつ進んだ。
石壁の陰には、吹き込んだ雪が腰の高さまで積もっていた。エステルは鉄鉤で雪を崩し、足場を作った。レオンは壁に寄りかかり、彼女が掘ったところへ右足を置いて進む。通路は狭く、二人並ぶことはできない。
「ここを抜ければ、旧監視路へ出る。母様の山小屋にも繋がってるわ」
「その山小屋は、ベルトランが閉じると言ってた場所か」
「ええ。でも小屋そのものは私のものよ。兄上が鍵を持っているのは、組合の救助門だけ」
「そこまで行けば、仲間に知らせられる」
「あなたを診てもらってからね」
レオンは何か言いかけたが、エステルが振り返ると口を閉じた。
「分かった。まず俺の足だ」
通路の先で、馬のいななきが聞こえた。エステルは足を止め、レオンを壁の陰へ寄せる。崖の上に灯りが三つ現れ、男たちの声が雪の谷へ落ちてきた。
「縄が切れてる! 誰か降りたぞ!」
「組合長に知らせろ。女が来たんだ!」
レオンはエステルの腕をつかんだ。
「追ってきた。俺を置いて行け」
「二度とその言葉を言わないで」
エステルは灯具の火を消し、レオンの体を支え直した。だが通路の出口にも、別の灯りが見えた。兄の警備兵が、先回りしていた。




