花婿が逃げたという嘘
結婚式の前夜、エステルは兄から花婿の失踪を告げられた。
「レオンは逃げた。お前と結婚するのが嫌になったんだとさ」
ベルトランは食堂の暖炉に背を向け、封を切った手紙を卓上へ放った。紙は銀の燭台にぶつかり、エステルの皿の脇で止まった。兄は喪服を脱いで三週間しか経っていないのに、父が使っていた大きな椅子にすっかり馴染んでいる。
エステルは手紙を開いた。短い別れの文面には、彼女がよく知る男の名が記されていた。
「これはレオンの字じゃないわ」
「筆跡まで見分けるつもりか。みっともない」
「彼は私の名前を書くとき、最後の文字を右へ流すの。何度も見てきたもの。この手紙は違う」
ベルトランは鼻で笑い、葡萄酒を飲んだ。冬道組合の長に就任してから、兄は以前にも増して人の言葉を聞かなくなった。父の死後、組合が管理する冬の街道と有料の山越え道は、彼の命令ひとつで閉ざせるようになっている。
「字が違ったところで、あいつが帰らない事実は変わらない。明日の礼拝堂は空けてある。ギュスターヴ殿なら、花婿の代わりを務めてくださるそうだ」
「私が誰と結婚するかを、兄上が決めるの?」
「お前はもう二十四だ。救護隊の貧乏男と一緒になって、雪を掘って暮らすつもりだったのか。ギュスターヴ殿の父君は北の交易路に金を出してくださる。俺が冬道の通行権を広げるために、必要な縁談なんだよ」
エステルは手紙を折らず、卓上へ置いた。ギュスターヴは昨日、母から受け継いだ山小屋の鍵を結婚祝いに欲しいと言った男だ。断ると、山小屋など女ひとりで持っていても役に立たない、と笑った。
「レオンは逃げていない。どこにいるの」
「男に捨てられたのが認められないのか?」
「兄上。どこにいるの」
ベルトランは椅子から立ち上がり、卓を回ってエステルの前に来た。背の高い兄は、幼いころから彼女を見下ろすのが好きだった。今日はその顔に、父が生きていたころには見せなかった薄い笑みがある。
「いいか、エステル。お前が明日ギュスターヴ殿の前で承諾すると言えば、山小屋は今までどおり使わせてやる。嫌だと言うなら、救助道への門は春まで開けない。冬の間、お前の小屋には誰も行けない」
「そこは母様が、雪で立ち往生した人のために残した場所よ」
「母親の思い出で商売はできない」
「商売にするための小屋じゃないわ」
「だから俺がまともな使い方を考えてやってるんだ」
ベルトランは彼女の顎へ手を伸ばした。エステルが一歩退くと、兄は不愉快そうに眉を寄せる。
「明日の朝までに考えを改めろ。迎えの馬車を出す。花嫁が来なければ、ギュスターヴ殿の面目を潰すことになるぞ」
「私の花婿はレオンだけよ」
兄は笑みを消した。
「死んだ男に嫁ぐつもりか?」
食堂の外で風が窓を打った。エステルは兄の言葉を聞き逃さなかった。
「今、死んだと言った?」
「言葉のあやだ。逃げた男など、死んだも同然だろう」
ベルトランはそれ以上答えず、扉の向こうに控えていた警備兵へ顎をしゃくった。兵が二人、エステルの両側に立つ。
「部屋へお送りしろ。窓も見張っておけ」
エステルは抵抗しなかった。廊下を歩きながら、兵の外套についた雪を見た。屋敷の門前は昼から除雪されている。それなのに、兵の肩には松の細い葉が何本も絡みついていた。北の救助道の先、三本杉の斜面でしか見ない葉だった。
自室の扉が閉まると、エステルは窓へ駆け寄った。下には警備兵が一人いる。外から閂を掛ける音がしたが、屋敷の部屋の扉は古く、蝶番を外せば開く。ただし時間がかかる。彼女が本当に確かめたいのは、厩舎にあるはずのものだった。
机の引き出しから細い針金を取り、内鍵の金具を抜く。父に叱られた幼いころ、母が教えてくれた抜け道のひとつだ。裏の衣装部屋へ通じる扉は、兄が当主になっても塞がれていない。エステルは靴を脱いで廊下へ出ると、暗い階段を降りた。
厩舎では、馬番の少年が干し草を束ねていた。エステルを見るなり、少年は作業の手を止めた。
「お嬢様、今夜は外へ出るなって言われています」
「レオンの馬は?」
「救護隊の栗毛ですか。昼前に戻りました。でも、隊長は一緒じゃありませんでした」
「誰が連れてきたの」
少年は戸口を気にした。
「組合長の警備兵です。鞍を外すなって怒鳴られたので、そのまま奥に」
エステルは奥の馬房へ進んだ。栗毛の牝馬は彼女を見ると鼻を鳴らし、餌桶から顔を上げた。鞍の左側には新しい擦り傷があり、革紐には灰色の繊維が絡んでいる。レオンがいつも携える救助用の縄の色だ。
鞍袋の口を開けると、薄い革手袋が片方だけ残っていた。指先の縫い目は、エステルが冬の初めに直したものだった。彼は右手の手袋を失くしたことなど一度もない。片方だけ置いて、婚約者から逃げる男ではなかった。
「その馬、どこから戻ってきたの?」
「北の林道からです。朝、雪橇が林道へ出ていくとき、この子は後ろに繋がれていました。昼前に、警備兵がこの子だけ連れて戻ってきたんです」
「雪橇の荷は?」
「見ていません。布が掛かっていて……」
少年は言いかけて口を閉じた。エステルが続きを待つと、彼は小声で付け加えた。
「布の端から、靴が出ていたんです。人の靴です」
エステルは鞍袋を握った。レオンは昨日、救助道の門が勝手に閉められていると話していた。雪が降る夜にあそこを閉めれば、峠を越える旅人は有料の山越え道へ回るしかない。だが吹雪の中では、遠回りする前に人が倒れる。
彼は組合へ抗議に行くと言っていた。兄が門を閉めたのなら、レオンを黙らせる理由がある。
「ありがとう。あなたは今夜、私を見ていないことにして」
「でも、お嬢様」
「嘘をつかせてごめんなさい。レオンを連れ戻したら、私が兄上に話すわ」
少年は泣きそうな顔で首を振った。
「三本杉の手前です。この子を連れて戻ってきた警備兵が、そこで雪橇を曲げたと話していました。あそこから先は、道が二つあります」
エステルは馬房の奥に掛けられた自分の古い外套を取った。食堂で着ていた薄い室内着では動けない。厩舎の小部屋で厚手のズボンと羊毛の上着に着替え、母が使っていた革の腰帯を締める。縄、折り畳みの鉄鉤、火口箱、小さな灯具。どれも彼女が山で人を探すために使ってきた道具だった。
扉へ向かうと、少年が道を塞いだ。
「北の林道は、今夜は危ないです。風が変わりました」
「知ってる。だから急ぐの」
「隊長が本当にそこにいるなら、誰か呼んだほうが」
「兄上の警備兵が道を押さえている。救護隊に知らせるには、町へ降りなきゃならない。今は間に合わない」
少年は歯を食いしばり、馬の手綱を差し出した。
「この子なら道を知っています。隊長を乗せて何度も通ったから」
エステルは手綱を受け取り、少年の肩を一度だけ抱いた。馬の首に触れると、栗毛は静かに戸口へ向かった。
屋敷の裏門から出て、雪を踏み固めた林道へ入る。月は薄い雲の向こうにあり、枝の影が足元で揺れていた。エステルは馬を急がせすぎず、轍を探した。雪橇の二本の跡は風で浅くなっている。それでも三本杉へ近づくほど、右側の轍が深くなっていた。重い荷を載せたまま曲がったのだ。
木の根元に黒いものが落ちている。馬を止めて拾うと、レオンの救助縄を留める真鍮の金具だった。留め具は乱暴に曲げられ、灰色の縄が短く残っている。雪の上には、赤黒く凍った染みがあった。
エステルは金具を腰帯にしまった。三本杉の先で道は分かれる。左は山小屋へ続く安全な緩斜面、右は冬になると閉鎖される硝子谷の崖道だ。
雪橇の跡は、右へ曲がっていた。
エステルは馬から降り、手綱を杉の太い枝へ結んだ。崖道は馬を連れて歩けない。灯具の芯を短く調整し、片手で風を遮りながら進む。足元の雪を一歩ずつ踏み確かめた。
崖の縁に、切られた縄が垂れていた。
その下から、かすかな声がした。
「……誰か、いるのか」
レオンの声だった。




