↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
花婿を雪の谷へ捨てた兄へ、私は迎えに行く道を知っています  作者: あずきまんま


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/6

花婿が逃げたという嘘

結婚式の前夜、エステルは兄から花婿の失踪を告げられた。


「レオンは逃げた。お前と結婚するのが嫌になったんだとさ」


ベルトランは食堂の暖炉に背を向け、封を切った手紙を卓上へ放った。紙は銀の燭台にぶつかり、エステルの皿の脇で止まった。兄は喪服を脱いで三週間しか経っていないのに、父が使っていた大きな椅子にすっかり馴染んでいる。


エステルは手紙を開いた。短い別れの文面には、彼女がよく知る男の名が記されていた。


「これはレオンの字じゃないわ」


「筆跡まで見分けるつもりか。みっともない」


「彼は私の名前を書くとき、最後の文字を右へ流すの。何度も見てきたもの。この手紙は違う」


ベルトランは鼻で笑い、葡萄酒を飲んだ。冬道組合の長に就任してから、兄は以前にも増して人の言葉を聞かなくなった。父の死後、組合が管理する冬の街道と有料の山越え道は、彼の命令ひとつで閉ざせるようになっている。


「字が違ったところで、あいつが帰らない事実は変わらない。明日の礼拝堂は空けてある。ギュスターヴ殿なら、花婿の代わりを務めてくださるそうだ」


「私が誰と結婚するかを、兄上が決めるの?」


「お前はもう二十四だ。救護隊の貧乏男と一緒になって、雪を掘って暮らすつもりだったのか。ギュスターヴ殿の父君は北の交易路に金を出してくださる。俺が冬道の通行権を広げるために、必要な縁談なんだよ」


エステルは手紙を折らず、卓上へ置いた。ギュスターヴは昨日、母から受け継いだ山小屋の鍵を結婚祝いに欲しいと言った男だ。断ると、山小屋など女ひとりで持っていても役に立たない、と笑った。


「レオンは逃げていない。どこにいるの」


「男に捨てられたのが認められないのか?」


「兄上。どこにいるの」


ベルトランは椅子から立ち上がり、卓を回ってエステルの前に来た。背の高い兄は、幼いころから彼女を見下ろすのが好きだった。今日はその顔に、父が生きていたころには見せなかった薄い笑みがある。


「いいか、エステル。お前が明日ギュスターヴ殿の前で承諾すると言えば、山小屋は今までどおり使わせてやる。嫌だと言うなら、救助道への門は春まで開けない。冬の間、お前の小屋には誰も行けない」


「そこは母様が、雪で立ち往生した人のために残した場所よ」


「母親の思い出で商売はできない」


「商売にするための小屋じゃないわ」


「だから俺がまともな使い方を考えてやってるんだ」


ベルトランは彼女の顎へ手を伸ばした。エステルが一歩退くと、兄は不愉快そうに眉を寄せる。


「明日の朝までに考えを改めろ。迎えの馬車を出す。花嫁が来なければ、ギュスターヴ殿の面目を潰すことになるぞ」


「私の花婿はレオンだけよ」


兄は笑みを消した。


「死んだ男に嫁ぐつもりか?」


食堂の外で風が窓を打った。エステルは兄の言葉を聞き逃さなかった。


「今、死んだと言った?」


「言葉のあやだ。逃げた男など、死んだも同然だろう」


ベルトランはそれ以上答えず、扉の向こうに控えていた警備兵へ顎をしゃくった。兵が二人、エステルの両側に立つ。


「部屋へお送りしろ。窓も見張っておけ」


エステルは抵抗しなかった。廊下を歩きながら、兵の外套についた雪を見た。屋敷の門前は昼から除雪されている。それなのに、兵の肩には松の細い葉が何本も絡みついていた。北の救助道の先、三本杉の斜面でしか見ない葉だった。


自室の扉が閉まると、エステルは窓へ駆け寄った。下には警備兵が一人いる。外から閂を掛ける音がしたが、屋敷の部屋の扉は古く、蝶番を外せば開く。ただし時間がかかる。彼女が本当に確かめたいのは、厩舎にあるはずのものだった。


机の引き出しから細い針金を取り、内鍵の金具を抜く。父に叱られた幼いころ、母が教えてくれた抜け道のひとつだ。裏の衣装部屋へ通じる扉は、兄が当主になっても塞がれていない。エステルは靴を脱いで廊下へ出ると、暗い階段を降りた。


厩舎では、馬番の少年が干し草を束ねていた。エステルを見るなり、少年は作業の手を止めた。


「お嬢様、今夜は外へ出るなって言われています」


「レオンの馬は?」


「救護隊の栗毛ですか。昼前に戻りました。でも、隊長は一緒じゃありませんでした」


「誰が連れてきたの」


少年は戸口を気にした。


「組合長の警備兵です。鞍を外すなって怒鳴られたので、そのまま奥に」


エステルは奥の馬房へ進んだ。栗毛の牝馬は彼女を見ると鼻を鳴らし、餌桶から顔を上げた。鞍の左側には新しい擦り傷があり、革紐には灰色の繊維が絡んでいる。レオンがいつも携える救助用の縄の色だ。


鞍袋の口を開けると、薄い革手袋が片方だけ残っていた。指先の縫い目は、エステルが冬の初めに直したものだった。彼は右手の手袋を失くしたことなど一度もない。片方だけ置いて、婚約者から逃げる男ではなかった。


「その馬、どこから戻ってきたの?」


「北の林道からです。朝、雪橇が林道へ出ていくとき、この子は後ろに繋がれていました。昼前に、警備兵がこの子だけ連れて戻ってきたんです」


「雪橇の荷は?」


「見ていません。布が掛かっていて……」


少年は言いかけて口を閉じた。エステルが続きを待つと、彼は小声で付け加えた。


「布の端から、靴が出ていたんです。人の靴です」


エステルは鞍袋を握った。レオンは昨日、救助道の門が勝手に閉められていると話していた。雪が降る夜にあそこを閉めれば、峠を越える旅人は有料の山越え道へ回るしかない。だが吹雪の中では、遠回りする前に人が倒れる。


彼は組合へ抗議に行くと言っていた。兄が門を閉めたのなら、レオンを黙らせる理由がある。


「ありがとう。あなたは今夜、私を見ていないことにして」


「でも、お嬢様」


「嘘をつかせてごめんなさい。レオンを連れ戻したら、私が兄上に話すわ」


少年は泣きそうな顔で首を振った。


「三本杉の手前です。この子を連れて戻ってきた警備兵が、そこで雪橇を曲げたと話していました。あそこから先は、道が二つあります」


エステルは馬房の奥に掛けられた自分の古い外套を取った。食堂で着ていた薄い室内着では動けない。厩舎の小部屋で厚手のズボンと羊毛の上着に着替え、母が使っていた革の腰帯を締める。縄、折り畳みの鉄鉤、火口箱、小さな灯具。どれも彼女が山で人を探すために使ってきた道具だった。


扉へ向かうと、少年が道を塞いだ。


「北の林道は、今夜は危ないです。風が変わりました」


「知ってる。だから急ぐの」


「隊長が本当にそこにいるなら、誰か呼んだほうが」


「兄上の警備兵が道を押さえている。救護隊に知らせるには、町へ降りなきゃならない。今は間に合わない」


少年は歯を食いしばり、馬の手綱を差し出した。


「この子なら道を知っています。隊長を乗せて何度も通ったから」


エステルは手綱を受け取り、少年の肩を一度だけ抱いた。馬の首に触れると、栗毛は静かに戸口へ向かった。


屋敷の裏門から出て、雪を踏み固めた林道へ入る。月は薄い雲の向こうにあり、枝の影が足元で揺れていた。エステルは馬を急がせすぎず、轍を探した。雪橇の二本の跡は風で浅くなっている。それでも三本杉へ近づくほど、右側の轍が深くなっていた。重い荷を載せたまま曲がったのだ。


木の根元に黒いものが落ちている。馬を止めて拾うと、レオンの救助縄を留める真鍮の金具だった。留め具は乱暴に曲げられ、灰色の縄が短く残っている。雪の上には、赤黒く凍った染みがあった。


エステルは金具を腰帯にしまった。三本杉の先で道は分かれる。左は山小屋へ続く安全な緩斜面、右は冬になると閉鎖される硝子谷の崖道だ。


雪橇の跡は、右へ曲がっていた。


エステルは馬から降り、手綱を杉の太い枝へ結んだ。崖道は馬を連れて歩けない。灯具の芯を短く調整し、片手で風を遮りながら進む。足元の雪を一歩ずつ踏み確かめた。


崖の縁に、切られた縄が垂れていた。


その下から、かすかな声がした。


「……誰か、いるのか」


レオンの声だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。