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第9話:夜泣きと、不器用な父親

「いやぁぁぁぁぁっ!! こないでぇぇっ!!」


深夜、静まり返った公爵邸の空気を引き裂くような、悲痛な叫び声。

私はベッドから弾かれたように跳ね起きると、上着を羽織るのも、室内履きを履くのも忘れて、裸足のままノア様の部屋へと全力で駆け出した。


バンッ! と勢いよく扉を開ける。


「ノア様!!」


薄暗い部屋の中。

新しいふかふかのベッドの上で、ノア様はプレゼントしたウサギのぬいぐるみを床に落とし、ひどく錯乱した様子でシーツを掻き毟っていた。


「ぶたないでぇ……っ! ごめんなたい、ごめんなたいっ……!」


ポロポロと大粒の涙を流し、虚空に向かって必死に命乞いをしている。

その目には焦点が合っておらず、完全に過去の悪夢――使用人たちから受けていた凄惨な虐待の記憶の中に囚われてしまっていた。


(……っ! トラウマによる夜驚症……!)


前世の保育士としての知識と経験が、すぐさま現状を把握する。

深い心の傷を負った子供が、急に安全な環境に移された反動で、抑圧されていた恐怖を一気にフラッシュバックさせてしまうことは珍しくない。


私はベッドに飛び乗り、暴れるノア様の小さな体を、全身でぎゅっと強く、けれど痛くないように抱きしめた。


「大丈夫! 大丈夫ですよ、ノア様! ここには誰もいません! 悪い魔女はもういなくなったの!」


「ひぐっ、あ、あぁぁっ……!」


ノア様はパニック状態で、涙で濡れた『小さな手』を振り回し、私の胸元を何度もポカポカと叩いた。

自分の身を守ろうとする必死の抵抗。その力の弱さと、背負わされた恐怖の重さに、私の胸は張り裂けそうだった。


「こわい……っ、くらいよぉ……おかぁ、ちゃま……たすけ、て……っ」


恐怖でしゃくり上げながら紡がれる、悲痛な『舌足らずな言葉』。

私の心の中の「冷徹な公爵夫人」の仮面は完全に粉砕され、ただの一人の、狂おしいほど我が子を愛する母親としての感情だけが溢れ出した。


「ええ、助けます! お母様が、絶対にノア様を守ります! ずっと抱きしめていますからね……!」


私は自分の体温を全て分け与えるつもりで、ノア様の背中をトントン、トントンと、心音と同じリズムで優しく叩き続けた。

何時間でも、朝が来るまででも、私はこうしているつもりだった。


――その時。


ギィ……と、背後の扉が開く音がした。

振り返ると、そこには乱れた寝巻き姿の上にローブを羽織っただけのアレクシスが立っていた。


「……っ」


彼は、息を呑んで立ち尽くしていた。

いつもなら、子供の泣き声など「使用人に任せておけ」と冷酷に扉を閉ざすはずの氷の公爵。

しかし今夜、彼は自分の意思でこの部屋に足を運んできたのだ。


そして彼が目にしたのは、裸足のまま駆けつけ、なりふり構わず必死に息子を抱きしめて慰める私の姿だった。

アレクシスの氷のような青い瞳が、激しく揺れ動いている。

自分が放置してきた「現実」と、妻の無償の愛を目の当たりにして、強烈な罪悪感と自己嫌悪に苛まれているのが痛いほど伝わってきた。


私はノア様を抱きしめたまま、アレクシスに向かって静かに首を振った。

『邪魔をしないで』という意味ではなく、『今はただ、見守って』という母親としての合図。


アレクシスはしばらく躊躇っていたが、やがて、音を立てないようにゆっくりとベッドに近づいてきた。

そして、私の隣に、不器用に腰を下ろしたのだ。


(え……?)


驚く私をよそに、彼は大きな、そしてかすかに震える手を持ち上げた。

どう触れていいか分からないとでも言うように、空中で何度か彷徨ったその手は、やがて――。


トントン、トントン……。


ノア様の小さな背中を、恐る恐る、本当に不器用な手つきで叩き始めたのだ。


「……っ、アレクシス、様」


「……すまない。私には、こんなことしかできないが……」


絞り出すような、ひどく掠れた声。

「君を愛することはない」と言い放った冷徹な宰相の面影は、そこにはなかった。

ただ、自分の息子をどう愛していいか分からない、不器用で後悔だらけの父親の姿があった。


私の腕の温もりと、背中を叩く大きな手の不器用な優しさ。

両親から同時に与えられる初めての「庇護」に、ノア様の激しいパニックが、少しずつ、波が引くように静まっていった。


「……ひぐっ、んん……」


やがて、完全に泣き止んだノア様が、ゆっくりと青い瞳を開けた。

涙で潤んだその目は、私を見て、そして隣に座る父親を見て、瞬きをした。


「お、かあさま……おとう、さま……?」


「はい。お母様とお父様ですよ。もう、怖くありませんからね」


私が優しく微笑みかけると、ノア様はベッドの上に転がっていたウサギのぬいぐるみにすり寄るように身を預けた。

そして、片方の『小さな手』で私の服の胸元のレースをぎゅっと力強く握りしめ、もう片方の手を、おずおずとアレクシスの方へ伸ばしたのだ。


「……!」


アレクシスが息を呑む。

ノア様の小さな指先が、アレクシスの大きな手首の『服の裾を握る』。


「……ここに、いて……」


両手で私たち二人を繋ぎ止めるように強く握りしめたまま、ノア様は静かに目を閉じた。

ほんの数分後、その顔には、先ほどの恐怖が嘘のような、穏やかで天使のような『安心しきった無防備な寝顔』が浮かんでいた。


トクン、と。

隣に座るアレクシスの胸の鼓動が、静かな部屋に響いたような気がした。


ノア様の小さな手に服を握られているせいで、私たち二人は身動きが取れなくなってしまった。

ベッドに横たわるノア様を挟んで、至近距離で見つめ合う私とアレクシス。


「……あの」


「……今日は、このまま朝までいよう。彼が、また起きるといけないからな」


アレクシスは、私の目を真っ直ぐに見つめ返して、言い訳をするようにそう呟いた。

その耳の先が、暖炉の火のせいだけではなく、ほんのりと赤く染まっているのを、私は決して見逃さなかった。


氷の公爵の心に、決定的な温もりが灯った夜。

私たちは誰一人手を離すことなく、世界で一番温かいベッドで、一緒に朝を迎えることになったのだった。

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