第8話:おもちゃと笑顔と安全対策
「そこ! その飾り棚は角が鋭利で危険です。今すぐ撤去して倉庫へ運びなさい!」
「床の絨毯は毛足が長すぎてダニの温床になります。こちらの防ダニ加工済みの柔らかいマットに敷き詰め直して!」
翌朝。
公爵邸の片隅にあるノア様の私室は、朝から戦場と化していた。
私が発動した、名付けて『公爵邸・子育て環境大改革』である。
「お、奥様……さすがにこの重いアンティーク家具を全て運び出すのは……」
不満げに文句を垂れようとした若い従僕を、私は絶対零度の視線で射抜いた。
「あら、たかが家具一つ運べないの? 公爵家から高い給料をもらっておきながら、三歳の子供の安全な生活空間すら作れない無能なら、昨日のメイド長と同じように今すぐこの屋敷から出て行ってもらって構わないのよ?」
「ひっ! も、申し訳ございません! ただちに運びます!!」
私が氷のように冷酷な声で脅しをかけると、使用人たちは蜘蛛の子を散らすように慌てて作業に戻っていった。
(ふんっ。子供の安全対策を甘く見る奴は、全員シベリア送りよ!)
前世の保育士魂が、激しく燃え盛っている。
子供が過ごす部屋に、重くて倒れやすい家具や、頭をぶつけやすい鋭利な角など言語道断!
私は魔法と権力を容赦なく行使し、ノア様の部屋を徹底的に「幼児向け安全仕様」へと改装していった。
冷たくて固い石の床には、転んでも痛くないように厚手でクッション性の高いマットを敷き詰める。
壁の角には柔らかい布製のカバーを取り付け、誤飲しそうな小さな装飾品は全て撤去した。
陰鬱だった暗いカーテンは、太陽の光をたっぷりと取り込む、温かみのあるパステルイエローの布地へと交換する。
あっという間に、そこは冷酷な公爵邸の一部とは思えない、温かくて安全な「世界一の子供部屋」へと生まれ変わった。
「ノア様、お待たせいたしました。もう入って大丈夫ですよ」
廊下で待たせていたノア様を呼び入れる。
新しい服に着替え、銀色の髪を綺麗に梳かしたノア様は、見違えるほど明るくなった自分の部屋を見て、信じられないというように青い瞳を瞬かせた。
「ここ、ぼくの……おへや……?」
「ええ、そうです。ノア様だけの、特別なお部屋ですよ。……そして、私からプレゼントがあります」
私が背中に隠していたものを取り出すと、ノア様の目がさらに大きく見開かれた。
それは、私が昨晩、睡眠時間を削って徹夜で縫い上げた「特製のウサギのぬいぐるみ」だ。
最高級のオーガニックコットンを使用し、抱きしめた時の柔らかさと弾力に極限までこだわった、前世の保育士スキルの結晶である。
「ノア様のお友達です。どうぞ、受け取ってください」
私がそっと差し出すと、ノア様は恐る恐る、本当に壊れ物に触れるかのように手を伸ばした。
枯れ枝のように細かった『小さな手』は、栄養のある食事と睡眠のおかげで、ほんの少しだけふっくらとしている。
その小さな手が、ウサギのぬいぐるみの長い耳に触れる。
「……ふわふわ」
「はい、ふわふわです。ノア様が寂しい時は、この子がずっと一緒にいてくれますよ」
「……これ、ほんとうに、ぼくの……? もらって、いいの……?」
信じられないというように、確認するような『舌足らずな言葉』。
今まで、おもちゃ一つ与えられず、ゴミのように扱われてきたのだ。彼が疑心暗鬼になるのも無理はない。
「もちろんです。これは、ノア様のためだけに作った、世界でたった一つの宝物ですから」
私がとびきりの笑顔で頷くと。
「……っ!」
ノア様は、ウサギのぬいぐるみを小さな胸にぎゅぅぅっ!と力強く抱きしめた。
そして、その顔に。
この屋敷に来てから一度も見たことのなかった、三歳児らしい、太陽のように無邪気で、きらきらと輝くような『本物の笑顔』が咲き誇ったのだ。
「えへへ……! うさぎしゃん、あったかい! おかあさま、ありがとう!!」
(――ッッッ!!! 尊いぃぃぃっっ!!)
心の中の私が、あまりの可愛さに吐血して倒れ、すぐに蘇生してスタンディングオベーションを始めた。
なんだこの圧倒的で破壊的な笑顔は! 天使! いや、大天使ミカエルすら裸足で逃げ出すレベルの神聖さ!
「どういたしまして……っ! ああ、ノア様が喜んでくれて、お母様はとっても嬉しいです……っ!」
私が感極まってポロポロと泣き出しそうになっていると、ノア様がとてとてと歩み寄り、私のドレスの『服の裾を握り』、嬉しそうに見上げてきた。
「おかあさま、うさぎしゃんと、いっしょにあそぼ!」
「はいっ! もちろんです! お母様とウサギさんと、三人でたくさん遊びましょうね!」
そこから数時間、私は公爵夫人としての威厳など完全にかなぐり捨てて、ノア様と一緒に床のマットの上を転げ回り、全力でお人形遊びに興じた。
ノア様の明るい笑い声が、部屋中に響き渡る。
これだ。私が守りたかったものは、この笑顔なのだ。
やがて、遊び疲れたノア様は、ウサギのぬいぐるみを抱きしめたまま、コクンコクンと船を漕ぎ始めた。
「ふふ、いっぱい遊んで眠くなってしまいましたね」
私はノア様をそっと抱き上げ、新調したふかふかのベッドへと寝かせた。
ウサギに頬ずりしながらスースーと規則正しい寝息を立てる、その『安心しきった無防備な寝顔』。
もう、怯えや恐怖の欠片もない、本当に幸せそうな寝顔だった。
(この平和な時間が、ずっと、ずっと続けばいいのに……)
私は、ノア様のサラサラの銀髪にそっとキスを落とし、幸せを噛み締めながら部屋を後にした。
完璧な安全対策。愛情たっぷりのおもちゃ。そして、推しの最高の笑顔。
私の無双子育ては、完璧な軌道に乗り始めたはずだった。
――しかし。
その日の、深夜。
屋敷中が静まり返った深い闇の中で。
「いやぁぁぁぁぁっ!! こないでぇぇっ!!」
ノア様の部屋から、鼓膜を劈くような、悲痛で激しい泣き叫ぶ声が響き渡った。




