第7話:公爵への説教と「おかあさま」
薄暗い廊下。
私は、隙間風の吹き込む冷たい石の床の上に立ち、今日から夫となった「氷の公爵」アレクシスを真正面から冷ややかに見据えていた。
「……お話とは、なんでしょうか。ノア様が起きてしまっては困りますので、手短にお願いしますね」
私の絶対零度の声に、アレクシスは一瞬だけ言葉を詰まらせた。
無理もない。つい数時間前まで「飾りの妻として大人しくしています」と満面の笑みで媚びを売っていた小娘が、今は路傍の石ころを見るような目で自分を睨みつけているのだから。
「……君が、長年仕えてきたメイド長たちを一斉に職務停止にしたと聞いた。一体、何の権限があって――」
「何の権限? 愚問ですね」
私は彼の言葉を冷たく遮った。
「私はこの公爵邸の女主人です。内政を整え、害悪を排除するのは私の正当な権利であり、義務です。……それより旦那様。あなたはご自分の足元の惨状に、今までまったくお気づきにならなかったのですか?」
「惨状、だと?」
眉間におぞましいほどの皺を寄せるアレクシスに、私は一歩たりとも引かずに詰め寄った。
「ノア様の私室は、まるで地下牢のように冷え切っていました。暖かな季節だというのに暖炉に火の気もなかった。ノア様にはサイズの合わない薄汚れたシャツが一枚着せられているだけで、その小さな体にはいくつもの青痣がありました。……メイド長たちが、ノア様の養育費を横領し、ネグレクトと暴力を働いていたからです」
「な……っ!」
私の言葉に、アレクシスは雷に打たれたように目を見開いた。
彼の完璧な無表情が崩れ、明らかな動揺と、そして激しい自己嫌悪の色が浮かび上がる。
「……私は、養育記録だけを見ていた。ノアは問題なく育っていると、そう報告されていた。先妻を失ったあの部屋に近づくことからも、私は逃げていた。あの女は、私だけでなく古参の忠実な使用人にも偽りの報告を重ね、ノアの棟へ余人を近づけぬよう囲い込んでいた。……その逃げと油断が、メイド長たちの嘘を許したのだな」
「氷の公爵様ともあろうお方が、国の政には有能でも、ご自分のたった一人の息子の悲鳴には耳を塞いでおられたのですね。先妻への感情や、ご自身の過去のトラウマがあるのかもしれません。ですが……」
私は彼を真っ直ぐに射抜き、地を這うような低い声で告げた。
「親の都合で子供を孤独に追いやり、傷つけることなど、絶対に許されるべきではありません。あなたがノア様を愛せないと言うなら結構です。その分、私がノア様に一生分の愛を注ぎます。ですが、私の『子育て』の邪魔だけは、決してしないでくださいませ」
「……君は、ノアのために、本気で怒っているのか?」
信じられないものを見るような、震える声。
私は鼻で笑い捨てた。
「当然でしょう。あの子は私の、世界で一番大切な息子なのですから」
きっぱりと言い切った私の言葉に、アレクシスは完全に言葉を失った。
氷のように閉ざされていた彼の瞳の奥底で、何かが激しく揺さぶられ、音を立てて崩れ去っていくのがわかった。
「……すまなかった。私の、完全な落ち度だ。……メイド長の件は、君の処分を全面的に支持する。正式な解雇も私が裁可する。足りないものがあれば、何でも言ってくれ」
それだけを絞り出すように告げると、アレクシスは逃げるように背を向け、足早に廊下を去っていった。
その後ろ姿は、いつもの冷酷な宰相ではなく、ただの不器用で後悔に苛まれる一人の青年に見えた。
(ふん。少しは反省したみたいね。……さてと!)
私はくるりと踵を返し、扉の前に立つと、深呼吸をして顔の筋肉をほぐした。
さっきまでの冷徹な仮面を完全に脱ぎ捨て、世界で一番優しくて甘い「お母様」の顔をセットする。
ガチャリ、と音を立てないように慎重に扉を開ける。
「……っ」
部屋に入ると、ベッドの上で丸くなっていたノア様が、ビクッと肩を震わせて身を起こしていた。
大人の怒声が聞こえて、また怯えさせてしまったのかもしれない。
「ごめんなさいね、ノア様。目を覚ましてしまいましたか?」
私が急いでベッドのそばに駆け寄り、柔らかく微笑みかけると、ノア様の瞳からポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……っ、いなく、なっちゃったかと、おもった……」
しゃくり上げながら、ノア様が一生懸命に手を伸ばしてくる。
その枯れ枝のように細く、痛々しい『小さな手』が、私のドレスのレースの裾を、今度こそぎゅぅぅっ! と力強く握りしめた。
絶対に、もうどこにも行かせないと言うように。
(あ、あああああっ……! 可愛いっ! 私の服の裾を握って、泣きながら引き止めてるぅぅ!!)
心の中のオタク保育士が、歓喜のあまりスタンディングオベーションで咽び泣いている。
私はドレスが皺になることなどお構いなしに、ノア様の小さな体を、壊れないようにそっと、けれどしっかりと抱きしめた。
「どこにも行きませんよ。私はずっと、ノア様のそばにいます」
温かい体温を分け与えるように、背中を優しく撫でる。
すると、私の胸に顔を埋めたノア様が、小さく、本当に小さな声で呟いた。
「ほんとう……?」
「ええ、本当です。指切りしましょうか」
「……お、かあ……さま……」
――ドクンッ!!
時が、止まったかと思った。
鼓膜を震わせた、甘くて、舌足らずで、それでいて一生懸命に紡がれた、その言葉。
「お、かあさま……ずっと、いっちょ……?」
「っ……!!」
私の目から、ブワッと涙が溢れ出した。
前世でどれだけ公式グッズに貢いでも、画面越しに愛を叫んでも、決して届くことのなかった推しからの言葉。
それが今、現実の温もりを持って、私の胸の中に飛び込んできたのだ。
「はい……っ、はい! ずっと一緒です! お母様は、ずっと、ずーっとノア様と一緒ですよ……っ!」
私は涙腺崩壊を堪えきれず、ポロポロと涙を流しながらノア様を抱きしめ返した。
私の涙を見て驚いたのか、ノア様は小さな手で私の頬をそっと撫でてくれた。なんて優しい子なのだろう。
やがて、泣き疲れて安心したノア様は、私の腕の中で静かに目を閉じた。
ほんのりと桜色に染まった頬と、ぷにぷにの唇。
もう一切の恐怖を感じていない、子供らしい『安心しきった無防備な寝顔』がそこにあった。
(……決めたわ。この天使の寝顔を、絶対に守り抜く)
劣悪な環境なんて、明日で全て終わらせてやる。
私はノア様をそっとベッドに寝かせると、静かに燃える闘志を胸に誓った。
明日から、公爵邸の「子育て環境大改革」を決行する。
危険な家具は全て撤去! 手作りのおもちゃを大量生産! やさしい幼児食の献立も一ヶ月分完璧に組み上げる!
愛しの義息子を世界一幸せにするための私の戦いは、まだ始まったばかりなのだ。




