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第6話:扉の隙間から見守る氷の公爵


「……何だと?」


王宮での激務を終えて帰還し、執務室で書類の山に目を通していたアレクシスは、護衛騎士からの報告を聞いて氷のような眉をひそめた。


「はい。奥様が、メイド長をはじめとする数名の古参使用人を職務停止とし、ノア様の養育費に関する帳簿と証言を押さえさせました。理由は、ノア様への虐待および横領とのことです」


「……あの女が?」


アレクシスの執務室の温度が、急激に数度は下がった。


政略結婚で押し付けられた、没落寸前の伯爵令嬢リリアーナ。

結婚式の直後、「大人しく飾りの妻として隅に引っ込んでいる」と満面の笑みで宣言したはずの女が、舌の根も乾かぬうちに公爵邸の使用人を処分したというのか。


最初に胸をよぎったのは、疑念だった。

やはり、他の貴族の女たちと同じなのか。

権力を手に入れた途端、屋敷を自分の思うままに動かそうとしているのではないか。


しかし、報告に来た騎士の顔は青ざめていた。


「閣下。恐れながら……奥様のご指摘は、事実である可能性が極めて高いかと」


「……続けろ」


「押収した帳簿には、ノア様の衣食住に十分すぎるほどの予算が計上されていました。しかし実際の物品の納入記録と照合すると、半分以上が存在しておりません。さらに、暖炉用の薪、衣類、薬草、教育玩具の購入記録にも不自然な改竄が見つかりました」


「改竄だと?」


アレクシスの声が、低く凍りつく。


「はい。しかも、ただの偽造ではありません。閣下の確認印を欺くための、かなり高度な隠蔽術式が帳簿に組み込まれておりました。閣下が毎月ご覧になっていた養育報告書は、表面上は正常に見えるよう細工されていたようです」


「……私の目を、欺いていたというのか」


「メイド長だけでなく、外部の魔導師の関与も疑われます。現在、術式の残滓を解析中です」


アレクシスは、手にしていた羽ペンを静かに置いた。


先妻の死後、彼はノアのいる棟に近づくことを避けていた。

先妻との関係は冷え切っていたとはいえ、彼女が亡くなった部屋、その匂い、その記憶が残る棟に足を踏み入れるたび、どうしようもない嫌悪と罪悪感に襲われたからだ。

だから、古参の使用人たちに任せた。

公爵家に長く仕えてきた者たちならば、最低限の世話くらいはするだろうと、勝手に信じ込んだ。


その怠慢を、誰かに利用された。


「……私は、何を見ていた」


氷の公爵と恐れられる男の声が、ひどく掠れていた。


国の裏帳簿も、隣国の密偵も、腐敗貴族の不正も見抜いてきた。

だが、たった一人の息子が、自分の屋敷の奥で泣いていたことには気づかなかった。


隠蔽術式があった。

報告書が偽造されていた。

古参使用人が組織的に情報を遮断していた。


それでも。


「……それは、言い訳にはならない」


アレクシスは立ち上がった。

黒い外套を翻し、冷酷な怒気を纏って執務室を飛び出す。


最初は、リリアーナを問いただすつもりだった。

勝手な振る舞いを許さぬと、氷のような言葉で叩きつけるつもりだった。


だが、客間に近づくにつれて、廊下の空気が変わっていく。


冷たい公爵邸にはあり得なかった、柔らかな温もり。

暖炉の火の匂い。

ミルクと甘いパン粥の残り香。

そして、聞いたことのない、優しい旋律。


客間の扉は、ほんの少しだけ開いていた。


アレクシスは、扉を開け放つつもりで伸ばした手を、途中で止めた。


隙間から見えた光景に、完全に息を呑んだからだ。


暖炉の柔らかなオレンジ色の光に照らされた部屋。

そこには、彼が「欲深で浅ましい女」だと断じかけた妻がいた。


リリアーナは、ベッドの縁に腰掛け、ノアの小さな背中を一定のリズムで優しく叩いていた。

その顔は、アレクシスが知るどの貴族令嬢とも違う。

見返りを求めず、ただひたすらに目の前の子供を慈しむ、あまりにも柔らかい表情。


彼女の膝に寄り添うノアは、痩せた手でリリアーナのドレスの裾を握りしめている。

その顔には、これまでアレクシスが一度も見たことのない、安心しきった無防備な寝顔が浮かんでいた。


「……んぅ……おかぁ、さま……どこにも、いかないで……」


半分眠りの中で紡がれる、舌足らずな甘い声。


リリアーナは、泣きそうなほど優しく微笑んだ。


「ええ、行きませんよ。ずっとここにいますからね」


その言葉に、ノアは小さく頬を緩め、リリアーナの指にすり寄った。


アレクシスの胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。


これは、偽善ではない。

これは、権力を得るための芝居でもない。

彼女は本気で、ノアを愛している。


そして、自分は。

父である自分は、その愛を与えることから、逃げ続けていた。


「……」


アレクシスは、扉の隙間から目を離せなかった。

怒りはもう消えていた。

代わりに胸を満たしていたのは、重く鋭い自己嫌悪と、言葉にできないほどの衝撃だった。


その時、リリアーナがふと顔を上げた。

扉の向こうにいるアレクシスの気配に気づいたのだ。


目が合った瞬間。


彼女の聖母のような微笑みは、一瞬で消えた。


ノアを起こさないよう慎重にその小さな手からドレスの裾を外し、リリアーナは足音を殺して扉へ近づく。

そして廊下に出ると、パタン、と静かに扉を閉めた。


「……」

「……」


廊下で対峙する二人。


先ほどまでの温かな空気はどこへやら。

リリアーナは、氷の公爵であるアレクシスすら凍らせるような、絶対零度の視線で彼を見上げた。


「……ノア様が起きてしまいます。お話があるなら、廊下で伺いましょうか、旦那様?」


その声には、妻としての遠慮など欠片もない。

愛する子供の眠りを妨げる者への、容赦ない怒りだけがあった。


アレクシスは、初めて妻の冷気にたじろいだのだった。


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