第4話:初ざまぁ。お掃除は徹底的に
「……お呼びでしょうか、奥様」
重苦しい音を立てて扉が開き、現れたのは、でっぷりと太った中年の女だった。
彼女こそが、この公爵邸の使用人たちを束ねるメイド長だ。
その顔には、名ばかりの新しい公爵夫人である私に対する明らかな軽蔑と、「わざわざこんな薄汚れた部屋まで呼び出しやがって」という不満がアリアリと浮かんでいた。
私は石の床に倒れ込んでいるノア様を自分の背中に庇うようにして立ち上がり、メイド長を静かに見据えた。
「この部屋の惨状は、一体どういうことかしら。公爵家の唯一の後継者であるノア様の私室が、なぜこんなにも冷え切り、埃にまみれているの?」
私の問いかけに対し、メイド長は悪びれる様子もなく、ふんっと鼻を鳴らした。
「ああ、その子のことですか。……奥様はまだご存知ないのでしょうが、その子は前妻の呪われた血を引く、忌まわしきガキ……いえ、お子でございますから。どうせ旦那様も他人同然に冷遇されていた前妻の子ですわ。前妻が死んだときに『呪われている』と噂が立って以来、屋敷中の者があの子のことを忌み嫌っているんですよ。最低限の食事を与えて生かしておくだけでも、我々に感謝していただきたいくらいですわ」
……ぷつん。
私の頭の中で、何かが完全に弾け飛ぶ音がした。
前世で、私は保育士だった。
どんな事情があろうと、子供は等しく愛され、守られ、健やかに育つ権利がある。
それを「呪われている」「愛されていない」などという身勝手な大人の都合で踏みにじり、あまつさえ三歳の幼児から食事や温もりを奪うなど、万死に値する大罪だ。
(絶対に、許さない)
私の瞳から一切の感情が抜け落ち、代わりに絶対零度の吹雪のような冷酷な光が宿った。
「……なるほど。よくわかったわ」
私が静かな声で応じると、メイド長は「新入りの小娘が理解したか」とばかりに醜く口角を上げた。
だが、次の瞬間。
「騎士を呼べ!!」
私の凛とした怒声が、冷たい部屋中に雷鳴のように響き渡った。
「な、なっ……!? お、奥様!?」
メイド長が驚愕に目を剥く中、廊下に控えていた公爵家専属の屈強な護衛騎士たちが、金属鎧の音を鳴らして雪崩れ込んできた。
「たった今から、公爵夫人としての権限を行使します! このメイド長、およびノア様の世話を担当していた使用人全員を、ただちに職務停止とし、帳簿と証言を押さえなさい! 正式な解雇と追放は旦那様の裁可を得てから下します。けれど、今この瞬間から、ノア様に近づくことは許しません!」
「はぁっ!? な、何を馬鹿なことを! 私はこの屋敷に十年以上も仕えてきた――」
「黙りなさい!!」
私の気迫に圧され、メイド長はヒッと喉の奥で悲鳴を上げた。
「三歳の幼児に対する悪質なネグレクト、身体的虐待、さらには公爵家から支給されているはずのノア様の養育費と暖炉用の薪代を横領した罪。調べればすぐに証拠は出るはずよ。……本来なら地下牢にぶち込んで拷問にかけてやるところだけど、私の可愛い息子の目の前で血を見せたくないから、まずは拘束だけで済ませてあげるわ。感謝しなさい」
氷の刃のような私の言葉に、メイド長はついに事の重大さを理解したのか、顔面を土気色にしてガタガタと震え出した。
「お、お待ちください! 旦那様は、アレクシス様はこのような勝手な真似を絶対にお許しには――」
「愛のない政略結婚の妻だろうと、私が『公爵夫人』の座にあることに変わりはないわ。家の内政を仕切るのは妻の正当な権利。それに、跡取り息子を虐待していたゴミ共を掃除して、旦那様が文句を言うとでも思っているの?」
ぐうの音も出ない正論と、私の放つ圧倒的な威圧感の前に、メイド長はへなへなとその場に崩れ落ちた。
騎士たちが容赦なく彼女の両腕を掴み、床を引きずるようにして廊下へと連行していく。
「いやぁぁぁっ! お許しを、どうかお許しをぉぉぉっ!!」
醜い絶叫が遠ざかり、やがて屋敷に再び静寂が戻った。
これで、ノア様を虐げていた第一の害悪(小ざまぁ)の排除は完了だ。
公爵邸のお掃除としては、まずまずのスタートだろう。
ふぅ、と小さく息を吐き、私は背後を振り返った。
「ひっ……!」
そこには、大人の怒声と突然の乱闘騒ぎに恐怖し、部屋の隅で小さな体を限界まで丸めているノア様がいた。
その瞬間、私の顔から「冷徹な公爵夫人」の仮面が剥がれ落ち、中身の「限界突破した激甘オタク保育士」が猛スピードで表に飛び出してきた。
(ああああああっ! やってしまった! 私の可愛い天使の前で、あんな大声で怒鳴るなんて! 絶対に怖かったよね!? ごめんねぇぇぇっ!!)
「ひぐっ、う、あ……ごめんなたい、いいこにしましゅ……っ」
恐怖でパニックになっているのか、ノア様はポロポロと大粒の涙をこぼしながら、必死に『舌足らずな言葉』で命乞いをするように謝り続けている。
その顔は可哀想なほど蒼白だが、涙で潤んだ大きな青い瞳があまりにも美しくて、庇護欲を容赦なくえぐってくる。
「ノア様……!」
私は純白のドレスの汚れなど一切気にせず、ノア様の目の前にパッと膝をついた。
「もう大丈夫ですよ。悪い魔女は、お母様がみんなやっつけましたからね」
私が優しく微笑みかけると、ノア様は信じられないものを見るように瞬きをした。
そして、恐る恐る伸ばされた、枯れ枝のように細く傷だらけの『小さな手』が、私のドレスのレースの裾を、ぎゅっと……本当に、壊れ物を扱うようにそっと握りしめたのだ。
(ああっ……! 小さなおててが、私の服を……っ! 可愛すぎる! 尊すぎて心臓が止まるかと思った!! いますぐこの手を握り返して、頬ずりして、一生離したくない!!)
鼻血を吹き出しそうになるほどの母性の暴走を、私は歯を食いしばって必死に耐えた。
今はまだ、彼を急に抱きしめてはいけない。ゆっくりと、時間をかけて安心させなければ。
私はノア様の目線に合わせてしゃがみ込み、これ以上ないほどの温かい、陽だまりのような声で語りかけた。
「さあ、こんな寒くて暗いお部屋とはもうお別れです。まずは温かいお湯で体を綺麗にして、美味しいご飯をお腹いっぱい食べましょうね」
私の提案に、ノア様の青い瞳が、ほんの少しだけ期待に揺れた気がした。
冷酷な夫との結婚生活? 死亡フラグ?
そんなものは、この可愛い天使の前では塵芥に等しい。
私の命を懸けた、究極の無双子育てがいよいよ幕を開けようとしていた。




