第39話:世界一幸せな悪役継母
「あーっ! にぃさま、ずるいー! わたしも、おかあさまとにぃさまに、ぎゅーってするのー!」
初夏の陽光が降り注ぐ、甘い薔薇の香りに満ちた公爵邸の庭園。
トテトテと愛らしい足音を立てて駆け寄ってきたのは、アレクシス様譲りの美しい銀色の髪をふたつ結びにし、サファイアのように青くて真ん丸な瞳をした三歳の少女——私とアレクシス様との間に生まれた愛娘、ルナだった。
「こらこら、ルナ。そんなに走ったら、芝生で転んでしまうよ」
つい先ほどまで、魔導騎士の訓練で疲れたと私の膝枕で丸くなっていたはずのノア様が、妹の声を聞いた瞬間にパッと身を起こした。
そして、私に見せていた甘えん坊の顔から一転、すっかり頼もしい「お兄ちゃん」の顔になり、両手を広げてルナを受け止めたのだ。
「にぃさま、えいっ!」
「わっ! ふふっ、ルナは元気だなぁ。でも、お母様のお腹には、ルナの新しい弟か妹がいるんだから、あんまりドスンってぶつかっちゃダメだよ?」
「はーい! わたし、おねえちゃんになるから、おりこうさんにするの!」
ノア様はルナを優しく抱き上げると、私の隣のソファにそっと座らせ、自分のハンカチで妹の額の汗を拭ってあげている。
すっかり背が伸び、剣と魔法の訓練で引き締まったノア様の体格は、三歳のルナと並ぶとすっかり小さな騎士のように頼もしく見えた。
原作ゲームでは、愛情に飢え、世界を憎み、すべてを破壊する『魔王』になるはずだった男の子。
私という悪役継母を惨殺し、悲劇の連鎖を生み出すはずだった、冷酷な運命の持ち主。
……その面影は、今やこの世界のどこを探しても、影も形もない。
目の前にいるのは、妹を誰よりも可愛がり、母親である私を心から慕い、父親を尊敬する、ただの心優しい立派なお兄様に育った私の「推し」だ。
「……ふふっ。ノア様は、本当に立派なお兄様になられましたね」
私が目を細めて微笑むと、ノア様は少し照れたように頬を掻き、ルナの頭を撫でながら答えた。
「だって、僕はお母様から、いっぱいの愛をもらって育ちましたから。お母様が僕にしてくれたように、僕もルナや、これから生まれてくる子に、ありったけの愛をあげたいんです」
「ノア様……」
なんて尊いのだろう。
私の保育士としての知識と、ありったけの母性を注ぎ込んだ結果が、こんなにも美しい愛情の連鎖を生み出している。
公爵邸には、かつて私やノア様を虐げていたような陰湿な使用人など一人もいない。すれ違うたびに温かい挨拶を交わしてくれる、家族のような使用人たちばかりだ。
気がつけば、私はこの広大な公爵邸で、すっかり「大家族の立派な母親」になっていたのだ。
「……あ、あれ? でも、なんだか急に……」
ルナと笑い合っていたノア様が、ふいにコクン、と首を揺らした。
どうやら、厳しい魔法訓練の疲労と、庭園の心地よい日差し、そして妹をあやした安心感から、一気に強烈な睡魔が押し寄せてきたらしい。
「ノア様? 無理をして起きていなくてもいいですよ。もう一度、私の膝でお休みになりますか?」
「う、うん……おかあ、さま……」
コテン、と私の膝に頭を預けたノア様は、ものの数秒でスースーと規則正しい寝息を立て始めた。
八歳になり、すっかり背も伸びて大人びたノア様だが、眠りに落ちる瞬間の無防備さは、出会ったあの頃のままだ。
剣の素振りで少しだけマメができたけれど、私から見ればまだまだ『小さな手』。
その指先は、安心を求めるように無意識に伸びてきて、私のドレスの『母の服の裾を握る』という、昔からの可愛らしい癖を披露している。
ルナもノア様に寄り添うようにして、兄の腕の中で丸くなって眠ってしまった。
「むにゃ……おかあさま、ルナ……だぁいしゅき……」
夢の中で、ノア様がとろけるように甘い『舌足らずな言葉』を呟く。
どんなに強力な魔導師に成長しても、私の前でだけ見せてくれる、この『安心した寝顔』。
かつては毎晩のように恐怖に怯えて夜泣きをしていた子が、今ではこんなにも平和に、無防備に、絶対的な安全地帯で眠っている。
これこそが、私が全力で運命に抗い、掴み取った「世界一幸せな家族」の証だった。
「……本当に、君は素晴らしい母親だ。世界中のどの女神よりも尊く、愛おしい」
ふいに、背後からひどく低く、そして甘く熱を帯びた声が降ってきた。
振り返る間もなく、私の肩から背中にかけて、大きくて逞しい腕がすっぽりと回され、背中越しに強く、息が詰まるほど深く抱きしめられる。
アレクシスだった。
「アレクシス様。公務はもうよろしかったのですか?」
「あんなものは数日放置しても国は滅びん。それよりも、私の愛する妻が、こんなにも無防備に庭園で微笑んでいるのだぞ。他の男の目に触れる前に、私の腕の中に隠しておかなければ、嫉妬で王宮を氷漬けにしてしまうところだった」
「もう、相変わらず大げさなんですから」
私がクスクスと笑うと、アレクシスは私の首筋に顔を埋め、そこから耳たぶにかけて、何度も何度も、確認するように熱い口づけを落としてきた。
「大げさなものか。私は本気だ、リリアーナ。君が私に微笑みかけてくれるだけで、私は自分の命すら惜しくないと思える」
王宮では「氷の公爵」として恐れられ、冷酷無比な宰相として権力を振るう男。
しかし、私という妻の前でだけは、こうしてだらしなく顔を崩し、信じられないほど重すぎる執着と愛をぶつけてくる「狂犬」へと変貌するのだ。
「……少し風が出てきたな。君や、君のお腹にいる私達の新たな愛の結晶が冷えてしまっては大変だ。すぐにこの庭園全体を覆う、強力な温度調節の結界魔法を――」
「アレクシス様。あまり過保護が過ぎると、ルナやノア様が起きってしまいますよ? それに、私はアレクシス様の体温があるから、ちっとも寒くありませんわ」
私が背中に回された彼の大きな手に自分の手を重ね、指を絡ませるようにして微笑むと。
アレクシスは一瞬だけ息を呑み、そして、敗北を宣言するように深く、甘い溜息を漏らした。
「……君には、本当に敵わない。私がどんなに君を溺愛し、過保護に囲い込もうとしても、君のその大きな愛は、いつも私の想像を超えて私を包み込んでくれるのだから」
「ええ。だって、私は世界一幸せな悪役継母ですから。愛する夫と、可愛い子供たちを全力で愛でるのが、私の何よりの生き甲斐なのです」
アレクシスは愛おしそうに私の髪を撫でると、眠る子供たちを起こさないように、そっと私の頬を自分の方へ向けさせた。
そして、初夏の柔らかな日差しの中で、これ以上ないほど優しく、深い誓いのキスを落とした。
死の運命から始まり、すれ違いの結婚を経て、様々な困難や敵を容赦なく「ざまぁ」で乗り越えてきた私たち。
すべてが完璧に満たされたこの世界で、私たちの甘くて重すぎる溺愛の日々は、これからも永遠に続いていくのだ。




