第38話:数年後。大きくなった「推し」
あの嵐のような王宮での断罪劇と、アレクシス様との甘く情熱的な誓いの夜から。
――静かで、この上なく幸せな数年の月日が流れた。
初夏の陽光が降り注ぐ公爵邸の庭園は、色とりどりの薔薇が咲き誇り、むせ返るような甘い香りに満ちている。
かつて没落寸前の伯爵令嬢として、ただ死の運命に怯えていた「悪役継母」の姿は、今の私にはもう欠片も残っていない。
私はガゼボのふかふかなソファに深く腰掛け、最高級の茶葉で淹れられた紅茶を楽しみながら、愛する家族の帰りを待っていた。
「……リリアーナ!! ああ、私の愛しい女神よ、今帰ったぞ!!」
突如、庭園に続くガラス扉が勢いよく開かれ、見目麗しい公爵様――私の最愛の夫であるアレクシス様が、風のような速さで飛び込んできた。
漆黒の宰相服を纏った彼は、息を切らして私の前で片膝をつくと、私の両手を大事そうに包み込み、手の甲に何度も熱烈なキスを落とした。
「お帰りなさいませ、アレクシス様。今日はずいぶんと早かったのですね。まだお昼を過ぎたばかりですが……」
「当然だ。今日は朝から三時間も君と離れ離れになっていたんだぞ? 王宮での退屈な会議など、私の愛の炎を以てすれば三分で終わらせられる。……ああ、君の顔を見ないと、私の心臓は止まってしまうところだった」
相変わらずの限界突破した過保護っぷりである。
「氷の公爵」と恐れられた冷徹な宰相の面影など、私の前では一ミリも存在しない。
彼は、完全にだらしなく崩れた熱っぽい瞳で私を見上げ、大型犬のようにすりすりと頬を擦り寄せてくるのだ。
「アレクシス様ったら。あまり無茶をして、国王陛下を困らせてはいけませんよ?」
「陛下など知ったことか。私の世界の中心は君だ。いっそ王宮の執務室をこのガゼボに移し、君の膝枕で公務をこなしたいと本気で考えている」
真顔でとんでもない国家の私物化を提案してくる夫に、私はクスクスと笑い声をこぼした。
数年経っても、彼の重すぎる溺愛は落ち着くどころか、日に日にエスカレートしていくばかりだ。
「……お父様。相変わらず、お母様を独り占めして困らせているようですね」
その時、涼やかで、けれどどこか凛とした少年特有の透明感のある声が響いた。
庭園の入り口から歩いてきたのは、見事に仕立てられた魔導騎士の訓練服に身を包んだ、銀髪の美しい少年だった。
「ノア様!」
私が声を弾ませて立ち上がると、すっかり背が伸びたノア様――今年で八歳になる私の愛しい義息子が、大人のような洗練された微笑みを浮かべて近づいてきた。
かつては痩せこけて小さな人形のようだった彼は、毎日の栄養満点な食事と魔法訓練を経て、しなやかな筋肉を纏った見事な美少年へと成長を遂げていた。
氷のような青い瞳はアレクシス様によく似ているが、その眼差しには冷酷さではなく、深く穏やかな愛情が宿っている。
「ただいま戻りました、お母様」
ノア様は私の前でスッと優雅に片膝をつくと、まるで物語に登場する本物の騎士のように、私の手に恭しく口づけをした。
「今日も世界で一番お美しいですね。お母様の笑顔を見るだけで、厳しい訓練の疲れも全て吹き飛んでしまいます」
「ふふっ、ノア様ったら、すっかり紳士になられて。お帰りなさい、私の自慢の息子」
私が彼のサラサラの銀髪を撫でてあげると、ノア様は嬉しそうに目を細めた。
王宮の魔導師団ですら彼に教えることはもう無いと言われるほどの天才魔導師。
外で見せるその完璧でクールな立ち振る舞いは、令嬢たちの憧れの的となっているらしい。
「おい、ノア。抜け駆けは許さんぞ。リリアーナの手は私の特等席だ」
「お父様こそ、毎日お母様に甘えすぎです。お母様は僕のものですからね」
バチバチと青い火花を散らす、もはや我が家の日常風景となった「父と息子の陣取り合戦」。
私は「二人とも、私にとっては一番大切な家族ですよ」と宥めながら、ノア様をソファの隣へと座らせた。
「でも、今日は本当に疲れました……新しい結界魔法の構築で、魔力を使いすぎてしまって」
ソファに座った途端、ノア様は外で見せていた「完璧な紳士」の仮面をコロンと外し、私の肩にすりすりと頭を預けてきた。
「あらあら、それは大変でしたね。頑張り屋さんのノア様には、特別に膝枕をして差し上げましょう」
「わぁっ……本当? 嬉しい……」
私が膝をポンポンと叩くと、ノア様は嬉しそうに体を横たえ、私の膝の上に頭を乗せた。
そして数分もしないうちに、心地よい風と私の撫でる手に安心したのか、スースーと規則正しい寝息を立て始めたのだ。
すっかり大きくなった体。立派になった顔つき。
それでも、私の膝の上で昔と変わらない、天使のように可愛い『安心した寝顔』を見せてくれる。
眠りに落ちる直前、無意識のうちに『母の服の裾を握る』という可愛らしい癖も、三歳の頃から全く変わっていない。
剣や杖を握るために少しだけ豆ができたけれど、私にとってはいつまでも愛おしい『小さな手』。
夢の中で、彼がむにゃむにゃと口を動かす。
「……おかあさま、だーいしゅき……」と、昔のようなとろける『舌足らずな言葉』を紡ぐのだから、私の限界突破した母性愛は今日も絶好調に大爆発である。
(ああ、尊い……! 天才魔導師になっても、中身は私の可愛い推しのままね!)
私は愛おしさで胸をいっぱいにしながら、彼の頬にそっとキスを落とした。
向かいの席に座るアレクシス様も、嫉妬の表情を引っ込め、ひどく優しく、だらしなく崩れた父親の顔で私たちのことを見守っている。
原作の冷酷な運命を完全に粉砕し、自らの手で掴み取った、世界一幸せな家族の形。
私はこの絶対的な安らぎの中で、永遠に続く幸せを噛み締めていた。
――その時だった。
「あーっ! にぃさま、ずるいー!」
テテテテッ! と、可愛らしい小さな足音が庭園の芝生を駆けてくる音がした。
振り返ると、そこには。
アレクシス様やノア様と同じ、美しい銀色の髪をふたつ結びにし、サファイアのように青くて真ん丸な瞳をした、三歳くらいの小さな女の子が、両手を広げてこちらに向かって走ってきていた。
「わたしも、おかあさまとにぃさまに、ぎゅーってするのー!」
とてとてと駆け寄ってくるその小さな天使の姿に、私たち家族の顔は一斉に、これ以上ないほど甘い笑顔へと綻んでいったのだった。




