第36話:過去からの完全解放
公爵邸の最上階に位置する、広々とした豪奢な主寝室。
その大きく開け放たれたバルコニーから、初夏の心地よい夜風が静かに吹き込んできた。
夜空には、零れ落ちそうなほどの満天の星が瞬き、眼下に広がる王都の街灯りが、まるで散りばめられた宝石箱のようにキラキラと輝いている。
「……リリアーナ。夜風が少し冷たくないか? 万が一、君の華奢な体が冷えて風邪でも引いたら、私は心配でこの国中の魔導師をかき集めて王都中に結界を張らせなければならなくなる」
背後から、ひどく甘く、そして常軌を逸した過保護な声が降ってきた。
私が振り返るよりも早く、肩にふわりと温かい上着が掛けられ、そのまま大きな腕で後ろからすっぽりと抱き込まれる。
アレクシスの高い体温が、薄いネグリジェ越しの背中からじんわりと伝わってきた。
「ふふっ、大丈夫ですよ、旦那様。火照った体に、ちょうどいい風ですわ」
「そうか……。だが、無理は禁物だ。君は私の魂そのものであり、我が公爵家の至宝なのだから」
アレクシスは私の首筋に顔を埋め、そこから鎖骨にかけて、すうっと熱い吐息と共に愛おしげなキスを落としていく。
先ほどまで、誕生日の「お返し」と称して、広いベッドの中で散々甘く情熱的に愛された余韻が、体の奥底でまだ小さく疼いている。
私は彼に全てを預けたまま、バルコニーの冷たい大理石の手すりに寄りかかり、再び美しい星空を見上げた。
(……本当に、不思議な運命ね)
星の瞬きを見つめていると、ふと、私の脳裏にあの日の記憶が鮮明に蘇ってきた。
前世の保育士としての記憶を思い出し、自分が女性向け恋愛ファンタジーゲームの「悪役継母」に転生してしまったことに気づいた、あの絶望の結婚式前夜。
原作ゲームでの私は、愛情を知らずに育った義息子のノア様に酷い虐待を働き、やがて強大な力に目覚めて『魔王』となった彼によって、冷酷に惨殺されるという悲惨な死亡フラグが確定していた。
そして結婚式の直後。今こうして私の背中にしがみついている愛おしい夫からは、冷たい氷のような瞳で「君を愛することはない。ただの飾りだ」と、絶対零度の冷酷宣言を突きつけられたのだ。
初めて会った時のノア様は、痩せこけて薄汚れ、暗い部屋の隅でひどく怯えきった青い瞳をしていた。
愛を知らずに心を閉ざした彼を前に、私は自らの命の危険よりも「絶対にこの推し(息子)を幸せにする!」と、保育士としてのプロ魂を大爆発させたのだった。
――それが今や、どうだろう。
さっきまで行われていた私の誕生会で、ノア様は自分の『小さな手』で私のドレスの『服の裾をぎゅっと力強く握り』しめながら、「おかあさま、おたんじょうびおめでとう! だーいしゅき!」と、とろけるように甘い『舌足らずな言葉』で笑いかけてくれた。
今頃はきっと、自室のふかふかのベッドで、私が手作りしたぬいぐるみを抱きしめながら、世界で一番幸せな『安心しきった無防備な寝顔』を見せてくれているはずだ。
そして、私を「愛さない」と言っていた氷の公爵様は――。
「……リリアーナ。何を考えている? 気が散るな。私の腕の中にいる時は、私だけを見ていてほしい」
少しだけ不満そうな、低く掠れた大人の男の声。
アレクシスが私の顎を長い指ですくい上げ、強引に振り向かせると、その氷のように青い瞳に、狂おしいほどの独占欲と重すぎる愛情をゆらゆらと浮かべて私を見つめていた。
「ノアのことでも考えていたのか? あの子はもう夢の中だ。これ以上、私の妻の心を息子に奪われるのは我慢できない」
「ふふっ、相変わらず大人気ないですね、旦那様。……少しだけ、昔のことを思い出していたのですわ」
「昔のこと?」
「ええ。私たちが結婚したばかりの頃のことです。あの時、旦那様は私に『君を愛することはない』と仰いましたよね?」
私が少しだけ意地悪く微笑んで小首を傾げると、アレクシスはまるで特大の雷に打たれたように体をビクッと震わせた。
そして、端正で美しい顔を両手で覆い、ひどく苦しげな呻き声を上げたのだ。
「あああ……っ! 頼む、リリアーナ! その言葉だけは、私の一生の不覚にして最大の汚点だ。あの時の愚かな自分を、今すぐ過去に戻って氷漬けにして、粉々に砕き割ってやりたい……!」
本気で過去の自分への殺意を燃やし、後悔に身悶えする天下の宰相様の姿に、私はたまらずクスクスと笑い声をこぼした。
「冗談ですよ。でも、あの頃の氷のように冷たかった旦那様からは、今のこんなに優しくて……少し、いえ、かなり過保護な旦那様は、想像もできませんでした」
「……当たり前だ。君が私の凍りついた心を溶かし、無償の愛というものを教え、生きる意味を与えてくれたのだから」
アレクシスは顔を覆っていた手を離すと、痛いほど切実な瞳で私を見つめた。
そして、再び私をきつく、私の骨が軋むほど強く、強く抱きしめた。
「君を失うくらいなら、私は迷わずこの世界を壊す。……君とノアがいてくれるこの狂おしいほどの幸せを、私は永遠に手放さない」
彼の力強い鼓動が、私の胸に重なる。
その確かな温もりと、彼が紡ぐ重すぎる愛の誓いを聞いて、私はついに確信した。
もう、何も恐れることはないのだと。
私を縛り付けていた「悪役継母」という原作の呪縛も。
魔王化して私を殺すはずだった悲劇の未来(死亡フラグ)も。
すべては過去の幻影となり、私自身の愛と行動で、完全に粉砕し去ったのだ。
「ええ。私も、もう二度と離れませんわ。私たちは、世界で一番幸せな家族ですもの」
私は彼の広い胸に顔を埋め、背中に腕を回して力いっぱい抱きしめ返した。
過去からの完全なる解放。
満天の星空の下、私の心はこれ以上ないほどの絶対的な安堵と、極上の幸福感で満たされていた。
しばらくの間、二人の重なる鼓動と、木々を揺らす夜風の音だけが、甘い沈黙を奏でていた。
やがて、アレクシスが私の耳元にすり寄るように唇を寄せ、ふいに、低く熱を帯びた声で意味深な言葉を囁いた。
「……リリアーナ。ノアも随分と魔法を使いこなし、すっかり頼もしくなった」
「ええ、そうですね。先日のお披露目パーティーも、本当に立派でしたわ」
「ああ。だから……そろそろ、彼に最高の『プレゼント』を贈りたいと思うのだが」
「プレゼント、ですか? 今日は私の誕生日ですけれど……」
私が不思議に思って首を傾げると、アレクシスは私の頬を優しく撫で、獲物を絶対に逃がさない肉食獣のような、酷く色気のある瞳で私を射抜いた。
「ああ。ノアがずっと欲しがっていたものだ。……私と君の、可愛らしい『二人目(家族)』をね」
その甘く、そして逃げ場のない危険な囁きに、私の顔は一気に沸騰したように赤く染まったのだった。




