第32話:常軌を逸した過保護の始まり
王宮でのあの断罪劇から、数日が過ぎた。
第一王子派閥は解体され、私の実家であるフェルゼン伯爵家も爵位剥奪の上で強制労働。
私たち家族を脅かす影は、この国のどこにも存在しない。
公爵邸は今、文字通り世界で最も平和で、甘やかな空気が流れる「完全な安全地帯」となっていた。
しかし、平和が訪れたのと引き換えに、我が家の家主であるアレクシスの様子が、いよいよ本格的におかしくなっていた。
「……旦那様。あのご相談があるのですが」
「動かないでくれ、リリアーナ。そのまま、じっとしていてほしい」
朝の陽だまりが差し込むサロン。私がソファから立ち上がろうとした瞬間、アレクシスの低く甘い声に制止された。
彼は手に持っていた公務の書類を迷いなくテーブルに放り出し、流れるような動作で私の隣へ移動すると、当然のように私を横抱き——いわゆるお姫様抱っこで抱え上げたのだ。
「だ、旦那様!? またですか!? 私はただ、あちらの窓を開けようとしただけで……!」
「窓まで歩けば、床の冷えが君の体温を奪うかもしれない。それに、もし躓いてその白い肌に掠り傷でもついたら、私は正気でいられる自信がないんだ」
アレクシスは真剣そのものの表情で、私の腰を支える腕に力を込めた。
かつて「氷の公爵」と恐れられた宰相の瞳は、今や私への重すぎる執着と過保護な熱に浮かされている。
ちなみに、今は初夏だ。床には毛足の長い最高級の絨毯が敷き詰められており、冷え込む要素など微塵もない。
「旦那様、さすがにこれは過保護が過ぎますわ。私、自分の足で歩けますもの」
「ダメだ。君は我が家の至宝であり、私の魂そのものだ。指先一つ、不自由な思いはさせたくない」
結局、私は窓際まで「運搬」され、そこでようやく地面に下ろされた。
アレクシスは満足げに私の額にキスを落とすと、今度は私の喉元をじっと見つめ始めた。
「リリアーナ、今、少し咳をしたか?」
「え? いえ、今のは喉が少しムズムズしただけで……」
「ダメだ。すぐに国中の名医を呼び集めよう。王宮の最高級の薬草もすべて取り寄せさせる。今日はもう、一歩もベッドから出ずに休むんだ。私もすべての公務をキャンセルして、一日中君のそばで看病しよう」
「旦那様、落ち着いてください! 本当になんでもありませんから!!」
咳一つで国家レベルの騒動を起こそうとする夫を必死になだめる。
これが、ここ数日の私たちの日常だった。
アレクシスは、私が少し動くだけで「危ない」と抱き上げ、少し顔色が悪いと言えば「至急医師を!」と叫び、庭を歩こうとすれば「石に躓くといけない」とおんぶを申し出る。
もはや「狂犬」を通り越して、重度の心配性が限界突破した「溺愛モンスター」と化していた。
「……おかあさま、おとうさま、なにしてるの?」
ふいに、サロンの入り口から天使のような声が響いた。
見れば、お昼寝から起きたばかりのノア様が、眠たそうに目をこすりながら立っていた。
「ノア様! おはようございます。今、お父様とちょっとした『運動』をしていたところですよ」
「むにゃ……そうなんだぁ。おとうさま、おかあさまを、ぎゅーってしてるの?」
ノア様はトテトテと歩み寄ると、私のドレスの『服の裾をぎゅっと力強く握り』しめた。
その『小さな手』の感触に、私の母性愛は一気に沸点を超える。
「ああ、ノア様! なんて可愛らしいお姿なの……! さあ、お母様のところへいらっしゃい!」
「うんっ! おかあさま、だーいしゅき!」
ノア様が私の胸に飛び込もうとした瞬間。
どこからともなく伸びてきたアレクシスの長い腕が、空中でノア様をひょいと捕獲した。
「……ノア。今のリリアーナは非常にデリケートな状態だ。あまり勢いよくぶつかってはいけない。私が君を抱いて、ゆっくりとリリアーナの隣へ運ぼう」
「えぇー! ぼく、じぶんで、いけるもん!」
『舌足らずな言葉』で抗議する息子に対し、アレクシスは慈愛に満ちた、しかし一切の妥協を許さない顔で頷く。
結局、ノア様もアレクシスの腕の中で運ばれ、私の隣にそっと慎重に配置された。
「……おとうさま、やりすぎだよぉ」
「いや、これが家族を守るための正しい危機管理だ」
アレクシスは、私とノア様を両腕でまとめて包み込むように抱き寄せた。
その瞳は、もはや私たち以外の一切を視界に入れていない。
私たちが呼吸をしているだけで感動し、私たちが笑うだけで世界を祝福しそうなほどの、圧倒的な溺愛の奔流。
(旦那様……。確かに愛されているのは嬉しいですけれど、このままでは私、足が退化して歩けなくなってしまいますわ……)
内心で現代知識全開のツッコミを入れつつも、アレクシスの腕の温もりと、隣で甘えるノア様の柔らかさに、私はどうしても顔が綻んでしまう。
かつて自分を惨殺するはずだった「未来の魔王」は、今では私がいなければ眠ることもできない甘えん坊の三歳児。
そして、冷酷無比だったはずの「氷の公爵」は、私のために国を投げ出す覚悟さえある溺愛夫。
この屋敷という名の安全地帯で、私たちは、世界で一番甘くて重たい、幸せな時間を紡いでいた。
その夜。
たっぷりと栄養のある夕食(アレクシスにスプーンで食べさせられそうになったが、全力で阻止した)を終え、ノア様の寝かしつけの時間になった。
「おかあさま……あしたも、いっしょに、あそぼうね……」
ノア様は私の指を『小さな手』で握り、安らかな寝息を立て始めた。
私が作ったおもちゃに囲まれて、何にも怯えることなく見せる『安心しきった無防備な寝顔』。
その頬にそっとおやすみのキスを落とすと、背後からアレクシスが音もなく忍び寄り、私の腰をそっと抱き寄せた。
「ノアが寝たな。……ようやく、私の時間だ」
アレクシスの声が、低く熱を帯びる。
ノア様を寝かせた後の「看病」という名目の溺愛タイムが始まろうとしていた。
「旦那様、もう元気ですから、看病は必要ありませんわ」
「いいや。君が今、瞬きを一回多くした。これは疲労のサインだ。今すぐ私が抱いて自室まで運び、朝までじっくりと愛を注いで癒してあげなければならない」
「……はあ。もう、好きになさってくださいませ」
私は諦めて、アレクシスの首に腕を回した。
こうなると、何を言っても無駄なことはここ数日で学んでいたからだ。
幸せすぎて、少しだけため息が出る。
でも、そんな贅沢な悩みすらも、今の私にとっては愛おしいギフトだった。
――しかし。
そんな甘い日常の最中、公爵邸のポストに一通の豪奢な封筒が届けられた。
それは、成長したノア様の魔法の才能と、公爵家の安泰を国内外に知らしめるための、「ノアのお披露目パーティー」に関する企画書。
家族三人の本当の幸せを、世界に見せつける時が近づいていた。




