第31話:完全な安全地帯
「「「お帰りなさいませ! 旦那様、奥様、ノア坊ちゃま!!」」」
公爵邸の重厚なエントランスの扉が開いた瞬間、私たちを包み込んだのは、拍子抜けするほどに温かく、そして優しさに満ちた出迎えの声だった。
執事のセバスチャンを筆頭に、騒動の後に私が新しく面接して雇い入れた、誠実で温厚な使用人たちが、満面の笑みでズラリと並んで頭を下げている。
王宮での血生臭い断罪劇から一転、奥の厨房からは夕食のシチューの美味しそうな匂いが微かに漂い、磨き上げられた廊下には暖色の魔力灯が優しく灯っていた。
ここはもう、以前のような冷たくて陰湿な人間がうごめく屋敷ではない。
第一王子派閥という王宮の脅威も、実家という過去の呪縛も、すべて完全に粉砕し去った。
ここ公爵邸は、文字通り、私たち家族にとっての「完全な安全地帯」となったのだ。
「……んぅ……」
ふかふかに設えられたサロンの大きなソファに下ろされると、ずっと私の腕の中で眠っていたノア様が、ゆっくりと目を覚ました。
王宮からの馬車の中で見せてくれていた『安心しきった無防備な寝顔』から一転、その『小さな手』でこてんと目をこすりながら起き上がる姿も、悶絶するほどに愛らしい。
「おはようございます、ノア様。ふふっ、もう外はすっかり暗いですけれど。よく眠れましたか?」
私がノア様の隣に座り、寝癖のついた銀色のサラサラな髪を優しく撫でながら声をかける。
するとノア様は、パチリとサファイアのような青い瞳を開け、私のドレスの『服の裾をぎゅっと力強く握り』しめて、私の膝に擦り寄るように甘えてきた。
「おかあさま……おうち、ついたの?」
まだ半分夢の中にいるような、とろけるほどに甘い『舌足らずな言葉』。
私は「ええ、着きましたよ」と答えながら、その小さな体を力いっぱい抱きしめた。
(あああっ! なんて尊いの! この完全なる安全環境で、思う存分推し(息子)を愛でられる幸せ! これよ、私が求めていた保育士的スローライフは!!)
私の限界突破した母性が、今日も絶好調にカンストして荒ぶっている。
彼が二度と、自分が化け物だと泣き叫ぶことがないように。この温かい自己肯定感の塊のような環境で、いっぱいの愛情を注いで育てていくのだ。
「……ノア。目が覚めたようだな」
不意に、サロンの扉が開いて声がした。
振り向くと、そこには軍服からゆったりとした純白のシャツと部屋着に着替えたアレクシスが、二杯の温かいハーブティーと、ノア様用のホットミルクをトレイに乗せて立っていた。
先ほどまで王宮で政敵の首に氷の剣を突きつけ、国ごと滅ぼすと脅迫していた「狂犬」の面影は、もはや微塵もない。
そこにあるのは、妻と息子のために自らお茶を淹れて運んでくる、ただひたすらに家族を愛する一人の美しい父親の姿だった。
「おとうさま!」
アレクシスがテーブルにトレイを置くと、ノア様は私の腕の中からちょこんと抜け出し、アレクシスの前にトテトテと歩み寄った。
そして、ピンと小さな背筋を伸ばし、真剣な表情で見上げたのだ。
「ん? どうした、ノア。まだどこか怖いのか?」
アレクシスが心配そうに膝をつき、ノア様と目線を合わせる。
しかし、ノア様は力強く首を横に振った。
「ううん、こわくないよ! あのね、おとうさま」
ノア様は、その『小さな手』をぎゅっと胸の前で握りしめ、かつてないほど真っ直ぐで、力強い声で言葉を紡いだ。
「ぼくね、おとうさまみたいに、つよくなる!」
「……ほう」
「きょう、おとうさまが、わるいひとたちをババーン!ってやっつけてくれたみたいに……ぼくも、おかあさまを護れるくらい、いっぱいつよくなるの!」
それは、三歳の子供が口にしたとは思えないほど、頼もしく、そして決意に満ちた宣言だった。
自分の中に眠る「魔王」としての強大な力を恐れるのではなく、大好きな家族を守るための力として受け入れた、彼なりの最高の成長の証。
アレクシスは一瞬だけ驚いたように目を見開いた後――ふっと、妻である私の前でしか見せないような、だらしなくも深い愛情に満ちた笑顔を崩すように浮かべた。
そして、大きくて温かい手で、ノア様の銀髪をわしゃわしゃと誇らしげに撫でたのだ。
「ああ。お前なら、きっと世界で一番強い男になれる。……だが、今はまだ、私に頼っていいんだぞ。お前とお母様を守るのは、私の生き甲斐だからな」
「えへへっ! おとうさま、くすぐったいよぉ!」
キャッキャと声を上げて笑うノア様と、それを愛おしそうに見つめるアレクシス。
危機を乗り越え、真の意味で一つになった「世界一幸せな家族」の、これ以上ないほど温かくて優しい情景だった。
この甘くて平穏な日々が、これからはずっと続いていくのだ。
私は心からの幸せを噛み締めながら、二人の姿をいつまでも見つめていた。
――しかし。
私は、この男の重すぎる愛情と「過保護」のベクトルを、少しばかり見くびっていたらしい。
翌朝。
小鳥のさえずりと共に、爽やかな朝日がレースのカーテン越しに差し込んできた。
最高の目覚めに、私は大きく背伸びをしてベッドから起き上がろうとした。
「んんっ、よく寝たわ! さあ、今日もノア様のために美味しい朝ごはんを――」
私がベッドから足を下ろし、床の絨毯につま先をつけようとした、まさにその瞬間のことだった。
「待て、リリアーナ!! 動かないでくれ!!」
「えっ!? は、はいっ!?」
部屋の隅で公務の書類に目を通していたはずのアレクシスが、書類を放り出して血相を変え、風のような凄まじいスピードで飛んできた。
そして、私が足を下ろすよりも早く、信じられないほどの素早さで私を横抱き(お姫様抱っこ)に抱え上げたのだ。
「だ、旦那様!? 一体どうしたのですか、まさかまた敵の襲撃ですか!?」
私がパニックになって周囲を見渡すと、アレクシスはひどく真剣な、息が詰まるほど重い瞳で私を見つめ返し、とんでもないことを口走った。
「いや、そうではない。……朝晩はまだ少し冷え込む。君のその華奢な素足が冷たい床に触れて、万が一風邪でも引いたら、私は心配で生きていけない。食堂までは、私がこのまま抱いて運ぼう」
「…………は、はい?」
私は自分の耳を疑った。
今は初夏だ。床には分厚い最高級の絨毯が敷き詰められており、冷え込む要素など一ミリもない。
どうやら、全ての敵がいなくなり、完全な安全地帯を手に入れた反動で。
氷の公爵様による私に対する溺愛と過保護っぷりが、完全に常軌を逸したレベルへと限界突破してしまったらしい――。




