第30話:馬車の中の涙と絆
王宮を後にした公爵家の立派な馬車は、夕暮れのオレンジ色に染まる王都の石畳を、滑るように静かに進んでいた。
車内には、等間隔に響く心地よい馬蹄の音と、微かな車輪の軋みだけが満ちている。
「むにゃ……おかあさま、だーいしゅき……」
私の膝枕で、ちまっと小さく丸くなっているノア様が、夢の中で甘い『舌足らずな言葉』を呟いた。
よほど怖い思いをして疲れ切っていたのだろう。馬車に乗って私の温もりを感じた途端、ノア様はこてんと深い眠りに落ちてしまったのだ。
その『小さな手』は、私の純白のドレスの『服の裾を力強く握り』しめたまま、絶対に離そうとしない。
どんな国宝級の宝石よりも尊く、愛おしい彼の『安心しきった無防備な寝顔』。
その規則正しい寝息と、膝に伝わる小さな体温を感じていると……ふいに、私の視界がぐにゃりと歪んだ。
「……っ」
(あれ……? 私、どうして……)
無意識のうちに、大粒の涙がポロポロととめどなく零れ落ちていた。
実家や王宮の醜い害虫たちを前にして、私は完璧な「公爵夫人」として、そしてノア様を守る「最強の母」として、ずっと気を張っていた。その限界まで張り詰めていた緊張の糸が、絶対的な安全地帯であるこの空間で、完全に切れてしまったのだ。
一歩間違えれば、あの恐ろしい側近の手によって、ノア様が毒を飲まされていたかもしれない。
近衛騎士たちの冷たい凶刃に、私たちが無残に引き裂かれていたかもしれない。
前世はただの平和な日本の保育士だった私にとって、それはあまりにも重く、恐ろしい死の恐怖だった。
「こわ、かった……っ」
私は両手で顔を覆い、肩を震わせてしゃくり上げた。
ノア様を起こさないように声を殺そうとするが、一度溢れた恐怖と安堵の涙は、どうやっても止まってくれない。
次の瞬間。
グイッ、と強い力が私の腕を引き、私は温かくて広い、絶対的な安心感を持つ胸の中にすっぽりと閉じ込められた。
「リリアーナ……」
アレクシスだった。
彼は私の膝で眠るノア様を起こさないよう細心の注意を払いながら、それでいて、私の華奢な体が軋むほど強く、強く抱きしめてきたのだ。
「怖かったな。……すまない。一番恐ろしい瞬間に、君を一人にして、本当にすまなかった」
耳元に落ちる彼の声は、先ほど王宮で政敵を容赦なく蹂躙していた時の、あの絶対零度の響きとは真逆だった。
震えるほど甘くて、ひどく不器用で、痛いほどの熱と後悔を帯びている。
「旦那様ぁっ……うっ、ひぐっ、あぁぁっ……」
私はついに堪えきれず、彼の軍服の胸元に顔を埋めて、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
アレクシスの大きくて無骨な手が、私の震える背中を何度も何度も、宥めるように、慈しむように撫でてくれる。
「君はよくやった。誰よりも気高く、勇敢に、私の愛する息子を守り抜いてくれた。……だが、もう強がらなくていい。私の前でだけは、君のすべてを預けてくれ」
アレクシスはそっと私の顔を上げさせると、濡れた頬に、震える額に、そして涙で濡れた目元に、何度も何度も優しいキスを落とした。
まるで、少しでも力を入れれば壊れてしまう硝子細工を扱うような、息が詰まるほどの過保護で甘い手つき。
「もう二度と……絶対に、君たちを危険な目には遭わせない。私の命に代えても、世界のすべてを敵に回そうとも、君たちだけは必ず守り抜く」
それは、氷の公爵が魂を懸けて誓う、狂おしいほどの執着と、重すぎる愛情の誓い。
普通なら逃げ出したくなるほどの重さかもしれない。でも、今の私には、その重さが何よりも心地よく、たまらなく愛おしかった。
この逞しい腕の中こそが、世界で一番安全な、私の絶対的な居場所なのだから。
「はい……っ、信じて、います……旦那様……っ」
私が涙に濡れた顔で彼を見上げて微笑むと、アレクシスはふっと、蕩けるような甘い笑みを零した。
そして、今度は私の唇に、言葉を塞ぐように、深く情熱的な口づけを落とした。
すれ違いと冷酷な宣言から始まった政略結婚の夫婦は、数々の試練と危機を乗り越え、ついに心も体も完全に結びついたのだ。
夕暮れの馬車の中には、究極の溺愛と、絶対的な安心感だけが満ちていた。
やがて馬車はゆっくりと速度を落とし、見慣れた公爵邸の立派な正門をくぐった。
「着いたぞ、リリアーナ。我々の城へ」
アレクシスが優しく私をエスコートし、まだ夢の中にいるノア様を大事そうに片腕で抱き抱えて馬車を降りると、そこには。
「「「お帰りなさいませ! 旦那様、奥様、ノア坊ちゃま!!」」」
以前の冷たくて陰湿だった使用人たちとは違う。騒動の後に新しく雇い入れた、温かくて誠実なメイドや執事たちが、満面の笑みで私たち三人という「家族」を、温かく迎え入れてくれたのだった。




