第29話:王への脅迫。「国ごと見捨てる」
「……いったい、何事だ。我が王宮の誇る薔薇園が、この様な無残な有様とは」
近衛兵の一個大隊を引き連れて現れた国王の重々しい声が、完全に静まり返った庭園に響き渡った。
美しい石畳は粉々に砕け、色とりどりの薔薇は氷結して散り、地面には第一王子派閥の貴族たちが猿轡をはめられて無様に転がっている。
首謀者である第一王子の側近は、完全に気を失い、王都治安騎士に引きずられていた。
普通なら、王宮内でこれほどの武力行使に及べば、いかに宰相といえどただでは済まない。
しかし、アレクシスは国王を前にしても、瞳に宿る絶対零度の怒りを緩めなかった。
彼は私の肩を庇うように抱いていた腕を静かに離し、ノア様を片腕で抱き上げたまま、国王へ向き直る。
「陛下。御前を騒がせた非礼、深くお詫び申し上げます。ですが、これは王都治安総監としての非常執行権に基づく、正当な国家反逆容疑者の拘束です」
「国家反逆だと? 公爵、いくらそなたでも言葉が過ぎるのではないか。彼らはみな、第一王子を支える我が国の重鎮――」
「その重鎮たちが、隣国へ軍事機密を売り渡し、孤児院の資金を洗浄し、さらに王妃殿下名義の茶会を利用して私の妻と息子を殺害しようとしました」
アレクシスが合図すると、騎士が国王の前へ証拠書類を差し出した。
軍事機密の売買記録。
孤児院資金の流用帳簿。
違法薬物の購入経路。
王妃の公印が第一王子派の者によって持ち出された記録。
そして、今日この場で魔力暴走薬入りの菓子が出されたことを示す鑑定結果。
国王の顔色が、見る見るうちに変わっていく。
「……第一王子は、どこまで関与している」
「命令書に本人の署名があります。王妃殿下については、第一王子から『公爵家を牽制するため』と説明を受け、茶会名義と公印の使用を黙認した疑いが濃厚です」
「……愚かな」
国王は、深く目を閉じた。
その顔には、怒りと失望、そして王としての決断が浮かんでいた。
「第一王子は即刻、王位継承権を剥奪し、審理終了まで幽閉する。王妃は離宮に蟄居させ、公印管理の責任を問う。派閥貴族は全員、国家反逆罪として裁判にかける」
周囲の貴族たちが、息を呑んだ。
これで、黒幕は逃げられない。
第一王子も、王妃も、派閥も。
ノア様を利用しようとした者たちは、一人残らず断罪される。
しかし、アレクシスはまだ表情を緩めなかった。
「陛下」
「……何だ、公爵」
「私は今まで、この国のために我が身を粉にして働いてきました。泥を被ろうと、恨みを買おうと、国益を最優先にしてきた自負があります」
アレクシスは一歩、国王へ歩み寄った。
その瞬間、彼の全身から放たれる魔力の威圧に、近衛兵たちが思わず一歩後ずさる。
「ですが、もし今後二度と。王家であれ、高位貴族であれ、誰であろうと。私の妻と息子に少しでも危害を加えようとする者が現れたなら」
アレクシスは国王の目を真っ直ぐに射抜き、静かに、しかし最も恐ろしい宣告をした。
「その時は、私はこの国を、国ごと見捨てます。宰相の職を辞し、公爵領を王国政務から切り離し、我が領民と家族だけを守る盾となる。私の知略も、魔力も、影の情報網も、二度と王家のためには使いません」
「――ッ」
国王の顔面が蒼白になった。
アレクシスが敵に回るわけではない。
だが、アレクシスが国を支えることをやめる。
それがこの国にとって、どれほど致命的なことか、国王は誰よりも理解していた。
「私は陛下に反逆するつもりはありません。ですが、家族を守れぬ王家に忠誠を捧げるつもりもありません。どうか、ご承知おきください」
張り詰めた沈黙が落ちる。
やがて国王は、深く、深く息を吐いた。
「……分かった。王家の名において誓おう。ローゼンタール公爵家の妻子に危害を加えた者は、王族であっても処罰する。今日の件も、必ず公正に裁く」
「感謝いたします、陛下」
アレクシスは形式だけの礼を取った。
だが、その腕はノア様を決して離さない。
「おとう、さま……?」
アレクシスの腕の中で、ノア様が不思議そうに舌足らずな言葉を漏らした。
ノア様はアレクシスの軍服の裾をぎゅっと握りしめ、その胸にコテンと頭を預けている。
さっきまでの恐怖など嘘のように、彼にとって世界で最も安全な場所で、今にも眠ってしまいそうなほど安心していた。
アレクシスは、そんなノア様に気づくと、ふっと誰も見たことのないような優しい父親の笑みを浮かべた。
「……もう帰ろう。我が家へ。君たちがいる、本当の居場所へ」
アレクシスは片腕でノア様を抱いたまま、もう片方の腕で私の腰を強く引き寄せた。
誰も止めなかった。
誰も反論できなかった。
圧倒的な権力と、それ以上に重すぎる愛情の余韻だけを残して。
私たちは、完全に静まり返った王宮の薔薇園を、誰一人振り返ることなく後にしたのだった。




