第15話:過労ダウンと大騒動
「……っ」
視界が、ぐらりと大きく揺れた。
冷たい石の床が目の前に迫ってくるのを感じながら、私の意識はプツリと暗闇の中へ落ちていった。
「リリアーナっ!?」
遠くの方で、アレクシスの悲痛な叫び声が聞こえた気がした。
* * *
私が目を覚ましたのは、それから数時間後のことだった。
重い瞼をゆっくりと開けると、そこは見慣れた自室の天井ではなく、アレクシスの……つまり、公爵家の主が使う、無駄に広くて豪華な寝室の天蓋だった。
(……あれ? 私、どうして旦那様のベッドに?)
全身が鉛のように重く、熱っぽくてダルい。
どうやら、本格的に風邪を引いてしまったらしい。
「う、ぅぅ……おかあさま……っ、しなないでぇ……っ」
ベッドのすぐ脇から、しゃくり上げるような小さな声が聞こえた。
見下ろすと、ノア様が私のベッドのシーツにすがりつき、ボロボロと大粒の涙を流して泣いていた。
「っ、ノア、様……」
私がかすれた声で呼ぶと、ノア様はビクッと肩を震わせ、その『小さな手』で私の『服の裾を力強く握り』しめてきた。
「おかあさま! おめめ、あいた! ……よかったぁ、ずっと、ずっとねんねしてて……ぼく、こわかった……っ!」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、一生懸命に紡がれる『舌足らずな言葉』。
私の限界突破した母性が「今すぐ起きてこの天使を抱きしめなさい!」と警報を鳴らしているが、体が言うことを聞いてくれない。
「ごめんなさいね……ただの、風邪ですから……泣かないで……」
私が必死に手を伸ばしてノア様の銀髪を撫でようとした、その時だった。
バンッ!!!
寝室の重厚な扉が、蹴り破られんばかりの勢いで開け放たれた。
「おい! 王都中の名医はまだ集まらないのか!? 回復魔法の使い手も全て呼べと言ったはずだぞ!!」
飛び込んできたのは、髪を振り乱し、完全に冷静さを失って怒鳴り散らすアレクシスだった。
「だ、旦那様……?」
私の声に気づいた瞬間、アレクシスの氷のような青い瞳が、信じられないほど大きく見開かれた。
彼は弾かれたようにベッドに駆け寄ってくると、私の手を両手で包み込むようにして強く握りしめた。
「リリアーナ! 気がついたのか! 気分はどうだ!? どこか痛むところはないか!?」
「あ、あの……ただの熱と過労だと……」
「ただの熱だと!? 君は三日三晩、ろくに睡眠も取らずにノアの部屋の改装や幼児食作りに奔走していたじゃないか! その上、昨日は暴走する馬車の前に身を投げ出したんだぞ!!」
アレクシスの悲痛な叫びに、私は返す言葉がなかった。
確かに、前世の保育士スキルに頼りすぎて、自分の体力を完全に過信していた。
「申し訳、ありません……。でも、国中の名医を集めるなんて、大袈裟すぎます……」
「大袈裟なものか! 君が倒れた時、私の心臓は止まるかと思ったんだぞ!」
アレクシスは、私の手を握ったまま、まるで祈るように自分の額を私の手の甲に押し当てた。
その手は、昼間に私を抱きしめた時と同じように、ガタガタと小刻みに震えていた。
「もう……絶対に、無理はさせない。私の目が届く場所から、一歩も離さないからな」
重い。
言葉も、感情も、何もかもが重すぎる。
「君を愛することはない」と言っていた冷徹な氷の公爵は、今や妻の一大事に完全に狂犬化し、常軌を逸した過保護っぷりを発揮していた。
「旦那様……私、本当に……」
大丈夫です、と言おうとしたが、再び強烈なめまいが私を襲った。
視界が白くチカチカと明滅し、再び意識が遠のいていく。
「リリアーナ!? おい、しっかりしろ! リリアーナ!!」
「おかあさまぁっ!!」
遠のく意識の中で、最後に私の耳に届いたのは。
「神よ……どうか、彼女を奪わないでくれ……私の命と引き換えても構わない……だから……っ!」
そんな、アレクシスの切実で、痛いほど重い、祈りの声だった。




