第11話:定時退社する宰相
王宮の奥深くにある、国政の中枢を担う宰相執務室。
そこは今日、かつてないほどの異様な緊張感と、静かなパニックに包まれていた。
「……次。この法案は差し戻しだ。第二項の予算計上が甘すぎる」
「は、はいっ!」
「こちらの決裁書は確認した。実行に移せ」
「承知いたしました……ッ!」
「氷の公爵」の異名を持つ宰相、アレクシス・フォン・ローゼンタール。
彼は今、普段の三倍……いや、五倍近い恐ろしいスピードで、山積みになった書類の山を片っ端から処理していた。
羽ペンの動く音が、静まり返った部屋にカリカリと響き渡る。
(だ、旦那様が怖い……っ!)
(一体どうされたんだ!? まさか、隣国との戦争でも始まるのか……!?)
超ワーカホリックで知られる彼だが、今日の仕事ぶりは明らかに常軌を逸していた。
無駄な言葉を一切発さず、ただひたすらに、機械のように冷徹かつ正確に政務をこなしていく。
そして。
壁に掛けられた大きな古時計の鐘が、カァン、と定時を知らせる音を鳴らした瞬間。
パシッ、と。
アレクシスは羽ペンを置き、立ち上がった。
「本日の私の業務はここまでとする。残りの細かい処理は頼んだ」
「え……?」
「は……? あ、あの、閣下? 今後の会議の予定が……」
「急ぎではないだろう。明日回しにしろ。……ではな」
呆然と口を開けて立ち尽くす部下たちを完全に置き去りにして、アレクシスは漆黒の外套を羽織り、足早に執務室を後にした。
王宮の廊下を歩く彼の背中を、多くの貴族や官僚たちが信じられないものを見るような目で見送っていた。
『あの氷の公爵が、定時退社だと……!?』
王宮がかつてない激震に揺れていることなど、彼には全く関係なかった。
* * *
帰りの馬車に揺られながら、アレクシスは窓の外の景色をぼんやりと眺めていた。
(……私は、一体どうしてしまったのだ)
早く帰りたい。
ただその一心で、今日の彼は狂ったような速度で仕事を終わらせた。
今までは、冷え切った誰もいない公爵邸に帰るくらいなら、王宮の執務室で書類に埋もれて徹夜している方がマシだった。
だが今は違う。
目を閉じれば、今朝の温かい記憶が鮮明に蘇る。
自分の腕の中にすっぽりと収まっていた、妻であるリリアーナの華奢な体と、甘い香り。
そして、自分と妻の間に挟まれて、安心しきったように眠っていた息子、ノアの温もり。
『おはようごじゃいましゅ……!』
そう言って、自分に向かって両手を広げてくれた純真無垢な笑顔。
(……会いたい)
その思いに気づいた瞬間、アレクシスは片手で顔を覆った。
妻の淹れた温かい紅茶が飲みたい。息子のあの舌足らずな声が聞きたい。
二人を抱きしめて、あの信じられないほど平和で温かい空間に、一秒でも早く戻りたい。
自分の中に芽生えた、重くて、甘くて、息が詰まるほどの執着心に、氷の公爵は完全に白旗を揚げていた。
* * *
「おかえりなさいませ、旦那様。今日は随分とお早いですね。何かトラブルでもありましたか?」
公爵邸の玄関ホール。
私が不思議に思って出迎えると、アレクシスは少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
「……いや。少し、仕事が早く片付いたからな」
「まあ、素晴らしいです! お疲れ様でした。さあ、上着をお預かりしますね」
私がいつものように微笑みかけると、アレクシスは私の顔をじっと見つめ、ホッとしたように目元を緩めた。
「おとうさまー!」
その時、奥の廊下から、とてとてと可愛らしい足音を立てて、ノア様が走ってきた。
「こらこらノア様、廊下を走ると転んでしまいますよ!」
私が慌てて注意するが、ノア様は止まらない。
そして、アレクシスの足元までやってくると、その『小さな手』で、アレクシスのズボンの裾をぎゅっと力強く握りしめた。
「おとうさま、おかえりなちゃい!」
満面の笑みで紡がれる、天使の『舌足らずな言葉』。
その瞬間。
「……っ!」
アレクシスは、まるで雷にでも打たれたようにビクッと肩を震わせた。
そして、堪えきれないというようにその場にしゃがみ込むと、ノア様の小さな体を、両腕でそっと、宝物を扱うように抱きしめたのだ。
「あ、ああ……ただいま、ノア」
「えへへ……おとうさま、おっきい!」
ノア様が嬉しそうにアレクシスの首元に抱きつくと、アレクシスの完璧な美貌が、見る影もなく『だらしなく』崩れ落ちた。
完全に目尻が下がり、口元がだらしなく緩みきっている。
王宮の人間が今の彼を見たら、全員がショックで気絶するに違いない。
(……うわぁ。旦那様、完全にノア様にメロメロじゃないですか)
氷の公爵の、あまりにも分かりやすいギャップ。
私はその微笑ましい親子の姿を見て、なんだか胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
「さあ、お二人とも。温かいお茶と、焼き立てのクッキーの用意ができていますよ。一緒にいただきましょうか」
「くっきー! おかあさまのくっきー、たべる!」
ノア様はアレクシスの腕から降りると、今度は私のドレスの『服の裾を握り』、嬉しそうに飛び跳ねた。
(あああっ! 尊い! 私の服の裾を握る小さな天使! 今すぐ防腐処理して家宝にしたい!)
限界突破した母性が大暴走しそうになるのを必死に堪えながら、私たちは三人でサロンへと向かった。
* * *
サロンのテーブルには、私が前世の記憶を頼りに焼き上げた、バターたっぷりの動物クッキーが並んでいる。
「おいちい! これ、うさぎしゃん!」
ノア様は両手でクッキーを持ち、サクサクと嬉しそうに頬張っている。
口の周りにたくさんのお菓子の粉をつけて、足をパタパタと揺らすその姿は、何度見ても飽きない究極の癒しだ。
「ふふ、お口の周りが粉だらけですよ、ノア様」
私が柔らかい布でノア様の口元を拭ってあげていると、向かいの席に座るアレクシスからの、熱を帯びた強い視線を感じた。
彼の手元の紅茶はすっかり冷めているのに、彼はそれを飲むことも忘れ、ただひたすらに、私とノア様のやり取りを食い入るように見つめている。
(……なんか、最近旦那様からの視線が重いような気がするのよね)
無自覚に目で追ってくるというか、なんというか。
私が首を傾げていると、アレクシスがふと、真剣な表情で口を開いた。
「……リリアーナ」
「はい、何でしょうか?」
アレクシスは、テーブルの上でギュッと手を組み、少しだけ言い淀むように視線を彷徨わせた。
氷の宰相らしからぬ、珍しい躊躇い。
やがて彼は、意を決したように私を真っ直ぐに見つめて言った。
「……今度の休日。もしよければ、三人で……街へ出ないか?」
「え?」
「ず、ずっと屋敷の中にいては、ノアの教育にも良くないだろうからな。その、息抜きも兼ねて、だ」
耳の先をほんのりと赤く染めながら、必死に言い訳を並べるアレクシス。
冷酷な政略結婚のはずだった私たちの関係は、可愛い天使の存在によって、ゆっくりと、しかし確実に、新しい形へと変わり始めていた。




