第8話 光のないイルミネーション
それは前触れもなく起きた。いや、前兆はあったのかもしれない。
ジェットコースターに乗り、安全バーにしがみつきながら、なんとか地獄を乗り越え地面に立った時、違和感はあったのだ。あれ、なんか足痛いぞ、と。
けど今日の目標、スローガンを思い出して欲しい。「お姉ちゃんの威厳を高めよう」だったはずだ。
まさかジェットコースターが怖くて足を踏ん張った挙句、ふくらはぎを痛めたなんて誰が言えようか。うん、言えるわけないよね。
これくらいの痛みなら大丈夫、と学生気分で甘く見たのが終わりの始まりである。
私が「ぎゃっ!」と、とても人前で発するべきでない、なんとも情けない声で道路に倒れ込んだのが10分前。ふくらはぎを見れば筆舌に尽くしがたい、気持ち悪い動きで痙攣していた。
「まさか、お姉ちゃんがあんなにジェットコースター苦手だったなんて。無理して乗せてごめんなさい」
フードコートの一角、対面で座っていた義妹がしおらしく頭を下げた。別に京華ちゃんもわざとじゃないし、というか明らかに私の加齢が……ごほん、日頃の疲労が表れた結果だろう。
「気にしなくていいよ、お互い様だし! それより、そろそろアイス食べちゃお。溶け始めたくらいが一番美味しいんだよ」
力を入れずともスプーンが刺さるくらいが丁度いい。私と同じ感覚の人も多いのではなかろうか。
しかし、溶けきっては全てが台無しというのが難しいところだ。
「うん! 私は抹茶にしたけどお姉ちゃんは何味にした? なんか珍しい色してるけど」
「涼みたいからコーラにしたんだ。意外と売ってないし、食べられない味なんだよね」
コーラ特有の完全な黒とは言い切れない茶色が混じったような色のアイスを口に運ぶ。
ぺちゃっ。
「あっ……」と口に出した時にはもう遅かった。私が着ているのは白のTシャツ。絶望的に相性が悪そうなアイスが胸の辺りに落ちた。
「もう……しょうがないわね、お姉ちゃんったらドジなんだから」
どうしよう、このシャツ買ったばかりなんだけど。
胸元の悲劇から目を背けるように顔を上げるれば、京華ちゃんはズボンから水色のハンカチを取り出し席を立った。
「動かないでよ」
ハンカチが胸元にあたる。薄い布一枚の先に感じる義妹の手。
顔が熱くなる。京華ちゃんが髪をかきあげればほのかに甘い香りが漂ってくる。あっ、京華ちゃんはもう大人の女性なんだと不思議と実感した。
アイスをこぼして、義妹に世話をされて——まるで私が妹みたいじゃないか。
けど、意外と悪くないかも……ってそんなわけない。母性に惑わされるな!
邪念を振り払うようにぶんぶん、と顔を振れば、髪が京華ちゃんの腕を叩いた。
「ちょっと、どうしたのよ……って、これはわざとじゃなくて、お、お姉ちゃんがデカすぎるのに責任があるんだから」
ようやく京華ちゃんも自身の手が私のふくらみに振れていることに気がついたらしく、慌てた様子で手を離した。
私は乱れている鼓動がバレないかだけが不安である。どこからともなく漂ってきた甘いスイーツの香りが鼻を掠めた。
「ちょっとシミになったけど、我慢しなさいよねっ!」
「は、はい」
「……」
「……」
気まずい。上司がいるのに退社するくらい気まずい。いや、授業中居眠りしてて、終わりの挨拶で席を立てなかった時くらい気まずい。
空気が凍って、およそ10秒。足を引きずってでも動いた方がマシに違いない。
「ずっとフードコートにいてもしょうがないし、そろそろ行こっか。もう足は大丈夫だからさ」
うん、このくらいの痛みなら歩ける。立ち上がって動けることをアピール。
「本当に大丈夫かしら……」
と不安そうな京華ちゃんを立ち上がらせ、再び園内に繰り出す。
以降はジェットコースターを避け、負担が軽いアトラクションで時間を潰す。
時刻はそろそろ17時だ。朝から遊んで疲労困憊。翌日も仕事なんだけど、パレードを観ずに帰るわけにはいかない。
「パレードは何時からだっけ?」
「5時以降だったかな。早めに移動しといた方がいいから、今から移動しましょう。迷うわないように手つないどく?」
「やめてよ。子供じゃないんだら」
お姉ちゃんらしさを見せつけようとしたら、あっさり断られる。残念無念。
午前は順調だったんだけど、これでは「お姉ちゃんの威厳を高める」どころかマイナスになっているのでは?
「かなり人が集まってるわね。もっと早く移動しといた方がよかったかも。もうっ、みんなパレードに夢中で周りが見えてないんじゃないかしら」
群衆の波にぶつかり、京華ちゃんが唇を尖らせる。小柄な義妹が流されないよう守らないと。
頭では分かっているんだけど。
ズキンッ。あー、やっぱ無茶だったかなぁ……。
「お姉ちゃん、前向いて歩かないと危ないから。ほらっ、ついにパレードが始まるわ!」
私でも知っているキャラクター達が姿を見せる。京華ちゃんがこんなにはしゃいでいるのは初めて見たかも。
少しでも二人で良い景色を見たい。が、そう思うのは全員一緒のようで、前に進もうとしたのも束の間、背後から分厚い衝撃が加わる。
やばいっ、もう私の足に踏ん張る余力はない。
悲鳴すら出なかった。眼前に映るのは舗装されたアスファルトだけ。反射的に目を閉じる。
鼻が潰れて血を撒き散らす未来が現実のものとなる……ことはなかった。
柔らかく、優しい温もりが私を包んだ。うっすらと香水の匂いが鼻を伝う。まぶたを開ければガラスのような瞳がこちらを覗き込んでいた。
「やっぱりここは人が多すぎるわ。パレードを観にきたのか、サウナに入りにきたのか分かったもんじゃないわね! 向こうに行こ」
人混みから守るように抱き抱えられたまま、私を引っ張ってくれる。
不機嫌な口調で周囲を罵るけど、きっと本心は違う。
うう、なぜだろう。心臓が痛い。
煌めくパレードを背後に私たちが辿りついたのは人影のない細道だった。飲食店の背後なのかピザかなんかの匂いがした。
「ありがとね」
「べ、別にお姉ちゃんの足を慮って移動したわけじゃないから! 人混みが嫌だったの」
そうは言っても、こんな場所ではマスコット達も見えないし、光すら届かない。結局また無理して京華ちゃんの楽しみを奪って……情けなさすぎる。
「ごめんね」
「謝らないでよ。これはお姉ちゃんのためじゃなくて、私のため。私の我が儘なんだから!」
いい年した大人が家の外で泣くなんてドン引きだ。みっともなくて、迷惑でうざったいだけ。
だから目元に力を込めて精一杯堪える。もう立ってられなくて、膝を抱えて座り込んだ。冷たいコンクリートの壁が背に触れる。
「……ごめんなさい」
「な、泣かないでよ。全然お姉ちゃんのせいじゃないから」
「でも、私のせいで今日めちゃくちゃだ。足を攣って動けなくなるし、イルミネーションも見逃すし」
自分に腹が立って、投げやりに言葉を放る。いっそ、京華ちゃんに怒られればいいのに。私のことを罵って、叱ってくれれば気が晴れるのに。
肩に手が当たる。視線を上げれば、義妹は私の横に腰を下ろし、優しい目でこちらを見つめていた。肩に手をまわし、ゆっくりと髪をかきあげられる。
「よしよし」
「……やめてよ」
そう言っても京華ちゃんは撫でる手を止めなかった。鈴のような優しい声色で言葉を紡ぐ。
「お姉ちゃんだって甘えていいんだよ。子供の頃さ、私はいっつも優等生ぶってた。いや、押しつけられていたのかな? 家でも外でも、どこに行っても貴女はお利口さんだよね、って。息苦しくてしょうがない。本当は勉強も苦手なんだよね」
ぺろり、と舌を出して笑う。完璧で誰からも愛される国民的アイドル竹鶴京華ではなく、人間らしい笑みだった。
「けど、千早ちゃんだけは普通の女の子として接してくれた。テストで良い点を採ったら褒めてくれて、困っている時は心配してくれた。あのまま、皆から押しつけられたキャラで生きていたら私死んでるかも」
だって可哀想だったから。私の部屋と義妹の部屋は横同士で夜中にすすり泣く声がよく聞こえたんだ。
涙を誰にも見せない、触れさせない子だったから涙を拭くのではなくて笑顔を増やせるように接してあげることしかできなかった。
「だから千早ちゃんも困った時は言ってよね。つらかったら頼って。良い格好するのもいいけど、かっこ悪い千早ちゃんも嫌いじゃないから」
思えば幼い頃から母親に甘えたことはなかったかもしれない。というか父親の面影をもつ私を甘えさせてくれなかった。
もしかしたら私は誰かに甘えたがっていたのかも、子供の時からずっと。妹に甘えちゃってもいいのだろうか。葛藤はある。だから素直に「うん」とは言えなくて、ひねくれた言葉が口をついた。
「好きではないんだ」
「ふふ、当然カッコいい千早ちゃんのほうが好きよ」
どうしよう、義妹がカッコよくてダメになりそうだ。




