第6話 風邪の日
「くっしゅん」
「汚ったない! ちゃんと手押さえてよ」
「ごめん、ごめん。けど、思いっきりクシャミすると気分がいいじゃん」
「あまりに自己中すぎる理由に空いた口が塞がらないわ……。あと早く病院行ってよ。お姉ちゃん絶対風邪ひいてるよ」
「大丈夫、私風邪だけは引かないから!」
そんな会話をベッドの上で思い出す。あれは3日前だっただろうか。朦朧とした頭で思案する。
暗闇の中、スマホを探して電源をつける。
うっ、眩しっ。太陽光とは異なる人工的な光が不快感を引き出す。
「もう10時か。風邪引いた時の独り身ってまじでキツイんだよね……これだから風邪だけはひかないって誓ってたのに」
あんなフラグ立てなきゃよかったなー、と3日前の自分を恨んでもどうにもならない。
大学1年で風邪をひいた際、一人暮らしの風邪は身体的にも精神的にも致命傷になると学んだのに……くっ、不覚!
それにしても、こうして部屋に独りでいるのは、なんていうか、寂しいな。
仕事の嫌なこととか学生時代の後悔とか、どうしようもないことばかり振り返ってしまう。
今日は京華ちゃんは泊まりで仕事らしく、着替えなどを詰めて早朝に出て行った。
「こうなったら積んでた漫画にゲーム、連続ドラマ全部一気見でもやってやろうかな。それとも一人カラオケとか。次の日にはわーすーれて、風邪の日にはとーぼうとしーてみる」
腕まくりして起き上がっても、もちろん実行する元気はない。そしてボケても返してくれる人もいない。
最近ロック流行ってないし、どうせボケたところで分かってくれる人少なそうだけど。
無茶したせいか、体勢を崩してベッドに尻もちをつく。冷たいシーツ、静寂に包まれる室内。ああ、やっぱり寂しいな。
「ふて寝してやる!」
スマホを投げ捨て、重力に身を任せると、夢の中に旅立つのはすぐだった。
茹だるような暑さの中、希望に胸を膨らませてリビングに駆け込む。
あの人は夜勤明けで疲れたようにテーブルに腰掛けていた。不機嫌そうに片手を頬につけ、パソコンを睨む。
「見て! ついにテストで80点以上獲れたの。先生もよくやったって褒めてくれたんだ」
いつも赤点ギリギリの私だが、今回は頑張った。毎日机に向かったし、塾に通っている友達から勉強方法まで教わったのだ。
一刻も早く、この快挙を母に知らせようと学校終わりに急いで帰ってきた。ランドセルから答案用紙を取り出そうとするより早く、母の鋭い声が飛んだ。
「私の娘なんだから当然でしょ! ったく、勉強もダメ、運動もサッパリ。私の娘なのに……きっとあの人の血が強すぎるのね」
母の目には侮蔑が見え隠れしていた。苛立ちを隠さずに、パソコンを思いっきり閉じてテーブルに突っ伏す。もう話は終わりだった。
どうしようもないほど胸が痛くて、目が熱くて、吐き気がした。
「ごめんなさい」
私の声が母に届いていたかは分からない。いや、私の存在など疎ましいだけで、視界にすら入れようとしていなかったに違いない。
トイレに駆け込み、胃の中身を全て吐き出す。胃液以外なにも出なかったけど、少し楽になった気がした。
この家に私の居場所はない――。
いつか出ていこう。そして見つけるのだ。自分の居場所を。
存在するだけで自己嫌悪に陥るような環境ではなく、自由気ままに生きられる場所を目指さなければならない。
一つだけ願いがあるとすれば——その時は独りでないといいな。
「……ねえ、ねえってば! 大丈夫!?」
重たい影に体が囚われる感覚。耐え難い苦痛を振り払い瞼を押し上げる。
社会人生活で染み込んだ敬語が真っ先に口をつく。
「…………ん、だ、大丈夫です」
「ガラガラ声で言われても説得力ないわ。やっぱり風邪ひいてたんじゃない。急にうなされてたからビックリしたわよ」
人工的な光ではなく、健康的な朝日を全身に浴びて体を起こす。相変わらず体調は最悪で、動くだけで関節が痛む。
まさか久しぶりに実家の夢を見るとは。この前食べたカレーの味が影響しているのかもしれない。
まだ瞳は開かない。けれど、目の前に誰がいるかなんて見るまでもなかった。
乾燥しきった喉を動かすと焼けるような痛みがした。
「今日泊まりで仕事じゃなかったの?」
「早めに終わったから帰ってきただけ。そ、それに病人を放っておいたら気が気じゃないでしょう」
またまた、ツンデレなんだから。どうせ仕事も早めに切り上げてもらったに違いない。
義妹はそういう子なのだ。ふと、おでこの辺りがひんやりとして手をやる。
ぺろん、と青色のシートが剥がれて落ちる。どうやら寝てる間に看病までしてもらったらしい。
心配かけて、悪夢にうなされた姿まで見られて……お姉ちゃん失格だ。
そうだ。優しい義妹にお礼を言わなければ。しかし、かなりの重症のようで重力に負けて床に臥す。もう喋る元気もなかった。
シートが剥がれたおでこに京華ちゃんの手が伸ばされる。
あっ……と避ける間もなく距離は詰められた。
「うーん、熱は相変わらず下がってないか。顔色は少し良くなったけど、今日の仕事は無理だから。ちゃんと有給とって休むこと!」
冷たい手のひらが心地よくて、言葉が入ってこない。
ごめん、嘘だ。気の強そうな瞳が近づいてきて、桜色の唇が目の前にあって、体中の感覚が奪われた。
視覚に全ての神経が集まる感覚。京華ちゃんってこんなに大人びていただろうか。頭の隅で疑問がわく。
テレビに映る義妹は成長したとはいえ、昔の面影を残していた。あの頃の妹という感覚で、アイドルを推すという感覚よりはかわいい妹を応援しているような気分だったのに。
今はまるで私より大人なお姉さんに看護されているみたいで、動機が少し早まる。
どうして、私はそっち側の人じゃないし、彼女は妹なんだ。
「うん? 急に顔が赤くなったような。もしかして、また熱あがってるんじゃない」
顔、赤くなってるんだ……。ダメだ、近づかないでほしい。今ならまだ一線を越える前に引き返せるから。
くそ、心配してもらってるのに浮かれた気分になってどうする。だけれど、聞き分けのない心臓は一層ペースを速めた。
だから仕方がなかったんだ。気づいた時には思わず京華ちゃんの肩を思いっきり押していた。
「きょ、距離近い……よ? 風邪うつったら困っちゃうから」
「あっ、ごめん」
両目をまんまるに見開き、驚いている義妹にもっともらしい理由をつけて喋る。
どことなく気まずい沈黙が流れる。時計の秒針が動く音だけが一定のリズムで刻まれた。
様子を確認するように目線をあげれば、たまたま京華ちゃんと目があって、急いで顔をそらす。
「わ、私もう仕事あるから行くね」
「う、うん。がんばって」
姉妹にふさわしくない、まるで付き合いたての中学生みたいな会話のぎこちなさ。
行かないで欲しい、もっと甘やかしてほしいという気持ちが湧いたのは、きっと病気で心が弱気になっているからだ。そうに違いない。
京華ちゃんが仕事に行った後、会社に休みの連絡だけ入れて、再び横になる。
それから見た夢はなぜか私が妹で京華ちゃんが姉になっていて……また言えない秘密ができてしまった。




