第16話 さようなら
慌ただしく出て行った京華がその日のうちに帰ってくることはなかった。冷えたご飯をタッパーに包んで冷蔵庫に仕舞い、迎えた翌朝。私はいつものように会社のデスクに座っていた。
電車に乗るときも、街中を歩いているときも誰かに指を差されているようで全く気が休まらず、既に疲れが重くのしかかっている。
「先輩おはようございまーす」
「おはよう」
平静を装い、普段通りを心がける。窓から差し込む朝の太陽が眩しすぎて、気分が悪い。
デスクを整理整頓するフリをしていると水野はいつも通りに喋りかけてくる。
「先輩は昨日の記事、見ましたか?」
全身を巡る血の流れが早くなるのを感じつつ、軽く頷く。どうしてか水野の顔を見ることができなくて、そっとデスクの端に置かれた時計を見つめる。
「まさか京華ちゃんに恋人がいるなんてビックリしたっすよ。それも女性っていうのがもう。まあ、時代的に全然普通のことなんっすけどねえ。にしても相手の女性が誰なのか気になるっす~」
「……そうね」
幸いなことに水野は相手が私ということに気がついていないらしい。写真の画質も粗かったし、夜ということも影響しているに違いない。それと女性同士という点についても、さほど偏見があるタイプでもないようだ。
いきなり批判されずにすんでよかった。世間の反応が全員水野みたいな訳ではないだろうが、それでも身近な存在に否定されたら立ち直れない。
「けど、どうするんっすかねえ」
「なにかあるの?」
「パステルリボンが今度ワールドツアーやるんすよ。国内ツアーだけならまだいいっすけど、海外では同性同士への偏見が強い国とかも沢山あるからチケットの売上に影響とか出るかもしれないっす」
そうだ、ワールドツアーをやるんだった。確かに海外では宗教上の理由で風当たりが強い国もあると聞く。ニュースで流れていた苛烈なデモの様子が目に浮かんだ。
なんとかしないと。けど、私みたいな一介の会社員が出来ることなんて何もない……。
いや、一つだけある。実行すると同時に大事なものを失うことになるが。
「私パステルリボン大好きなんで、あのグループがこんな問題で終わってほしくないっすねぇ」
朝礼前、水野は最後にそう締めくくって雑談を終えた。
18時ちょうどにデスクを立ち、急いで電車に乗り込む。いつものホームと反対側に立ち、都心に向かう。帰宅途中のサラリーマンに揉まれながら、数個の駅を挟んで到着した目的地は駅近の喫茶店である。
細くて暗い路地裏にひっそりと身を隠すように店は建てられていた。入るための扉は黒く、まるで門のようだ。
ガランッと門をひらけば
「あちらへ」
と名前も告げていないにも関わらず店の奥へ案内された。髭をたくわえたダンディーなマスターに案内された席に京華がいた。
湯気の消えたコーヒーから相当前から店にいることが察せられる。
「おまたせ」
「私も今来たところよ。注文は何にする?」
京華はメニューを渡しながら聞いてくる。ただ、コーヒーの湯気が消えているので相当前から店にいるに違いない。店の常連なのか京華はメニューを見ることもなく解説を始める。
「この店の名物はカフェオレなの。なんでもマスターの実家が乳業を営んでいるそうで、コーヒーとミルクの絶妙なバランスが……」
正直のんびりコーヒーという気分ではないので、なんでもいいんだけど……。今なら水を飲んでも苦く感じられそうだし。
「じゃあカフェオレで」
「承知いたしました」
ドリンクが運ばれてくるまでの間、ざっと今日の報告を行う。
「やっぱり記事の広がり具合はすごいかも。会社でもほとんどの人が知ってたもの。けど、私が写真の人物だってことには誰も気がついてない」
「それはよかったわ。こっちはね、事務所としては恋愛容認だから《《普通は》》問題ないって言われたんだけど」
「普通は、ということはやっぱり反対意見が強いのね」
「ええ、同性というのでちょっと面倒臭くなってる。社長は全然気にしてないんだけど、周りがうるさいみたいで……たまたま運の悪いことに——」
「ワールドツアーがあるから、だよね」
私が理解していると思わなかったのか、京華は一瞬驚いた表情を見せた後、気がついているなら話は早いとばかりに頷いた。
「ええ。どうも海外のプロモーターが難色を示しているようなの。『このままだと興行の成功が危ぶまれる』って言ってるらしいわ」
唇を尖らせて京華はカフェオレを啜った。
待てよ。ということはワールドツアーが中止になる可能性があるということだ。
おそらく何億・何十億の金がかかり、大勢の人間が動いているはず。それが私のせいで中止。責任、という言葉が重くのしかかる。それは私の決意を固めるには充分すぎるものだった。
「失礼します」
目の前にそっとコーヒーカップが差し出される。マスターからカフェオレが運ばれてきて、一瞬話が途切れたものの、まだまだ話すことはあった。
「このままいけばワールドツアーに関しては規模とか開催地の変更があるかもしれないけど、開催はされる見通しだから心配しないで。メンバーとも話し合って分かってもらえたし」
「このままいけば、でしょ?」
私の言葉に場の空気が一気に凍った。店の隅で二つの影が揺らめく。
「あの記事の内容が誤りだった、そうなれば全部元通りにいくんだよ」
「な、何言ってるのよ。色々盛られて書かれてはいたけど、間違いってほどではないわ。完全に否定するわけにはいかないでしょう」
「一緒にいたのは姉、決して恋人ではない。そう言えば全てが元通り、上手くいくはず。ワールドツアーも今まで通りに開催されるはずよ。それだけじゃない、これからの芸能活動も順調になるわ」
元通り、だ。私たちの関係も、幼い頃から憧れて掴みかけていた居場所も失うのだ。
吐き気が催すほど苦しくて、自分が放つ言葉一つ一つが、私の心臓を切りつける。だが、言われる側の京華の方がずっと痛いだろう。だから私はこの程度で下は向かない。
「加えて私と京華が姉妹であるということは事実なんだから、今言った説明に反論のしようがないはず」
まさか姉妹で恋人関係なんて誰も分からないはずだ。そうなれば記者の早とちり、誤解だったで終わるはず。大人気アイドルに降りかかった誤解として数年後には笑い話となるに違いない。
「そんなの、そんなの……千早はそれでいいの?」
まるでワールドツアーより私の方が大事だとばかりの顔だ。私はどうだろうか。もちろん一緒にいたい。その気持ちに嘘はないけれど、パステルリボンには水野のように待っているファンがいる。こんなところでパステルリボンを潰してはならない。
「だ、だってまだ私たち付き合うって一言もいってないからさ。何もなかったって言えば大丈夫だよ」
「なにも……なかった……?」
愕然とした様子で京華が繰り返す。
大丈夫な訳ない。芸能活動が大丈夫でも、私の望んだ日常は崩壊する。今までの日々が何もなかったなんてことは絶対にない。この関係が白紙に戻るのは……。ダメだ、今になって迷うな。私の進む道は一つしかないはずだ。
「私たちは義理の姉妹でたまたま入っただけ、出先で体調不良で休める場所を探していたとかさ。そんな理由だったらきっと世間だって納得してくれるはず」
少なくとも恋人関係よりは好奇の目は減り、次第に風化していくに違いない。
「…………」
京華の沈黙は数秒、いや数十秒はあっただろう。そして、重苦しい空気を終わらせるように京華が口を開いた。
「……お姉ちゃんがそれでいいなら元通りにしましょ」
久しぶりに呼ばれた「お姉ちゃん」という言葉はどこか間違っている感じがした。それと同時に私たちの関係が終わったことを意味していた。
「さようなら」
席を立った京華に顔を合わせることができなかった。テーブルから漂うカフェオレの香りが暗い店内に溶けていく。
大丈夫、ただ元に戻っただけだ。今までもずっとそうだったはず。独りで生きてきた。
悲しくなんて、悲しいなんて気持ちを持ってはいけない……だって終わらせたのは私なんだから。マスターに見送られ店を出て、電車に揺られて帰宅する。錆びついた階段を上った先にある我が家。扉を押し開け、室内に入ると久しぶりの静寂に迎えられる。この家がこんなに静かだったのはいつ振りだろうか。
ボタンを探り当てて室内に明かりを灯す。そこには——誰もいなかった。 寝袋もしまわれ、誰かが一緒に住んでた痕跡すら見つからない。
私が失ったものを自覚したのは、この時だった。これからずっとこの家で独りで住んでいくのだろう。
冬を越え、春を迎えて、季節が幾度繰り替えされようとも。




