ご、露草-3
露草はもつれる足でその間に割り込むと、土蜘蛛に抱きつくようにして庇った。背中の身を引き裂かれる痛みが走る。
「あああああああああああ!」
あれだけ出なかった声が、喉を突き破るようにして響き渡った。
「露草殿、土蜘蛛!」
『ぎゃう』
側女の悲鳴が聞こえたが、露草には振り返る気力がなかった。しがみついていた手が力をなくして、落ちるようにしゃがみこむ。
背中が痛い。
意識が朦朧とする。
それでも、あふれ出す涙は痛みのせいじゃない事に、露草は一人笑った。
「良かった。良かった」
「露草殿」
薬師丸の声に、ゆっくりと時間をかけて顔を上げると、露草を覗き込む薬師丸の姿と、呆然と立ち尽くしている土蜘蛛の姿が彼の瞳に映った。
「やくし、まる殿…。土蜘蛛様は、無事、ですか?」
目が霞んでよく見えないが、薬師丸は頷いたようであった。追って、声が聞こえる。どうやら露草の目がよく見えていない事に気づいたらしい。
「ええ。ええ。あの女はもう息絶えております」
「そう…ですか」
ふらりと、露草の身体が傾いた。
その身体を薬師丸が支えて、彼は苛立たしげに、ちくしょう、と呟いた。彼の口からそんな下劣な言葉が出るとは思わなかった露草は、小さく笑う。
「だめですよ、薬師丸殿…。茶々がまた、マネをする…じゃ、ないですか」
「喋らないで下さい。窮鼠の毒だ――血が止まらない」
「狛どのも、噛まれて…」
「あの馬鹿犬は大丈夫ですよ。ああ見えて、元は神に仕える身です。ちょっとやそっとの穢れは平気なのです」
「そう…良かった」
「何故」
突然聞こえた土蜘蛛の声に、露草はぴくりと身体を浮かした。
「何故――俺などを庇った」
目が、もう見えない。
その分耳が良くなったように思えて、露草は声の聞こえる方に手を伸ばした。土の上を辿った指先が、草履に触れる。
「あなたに、生きて、欲しかった」
「俺は人殺しだ。この手で、幾人を斬った」
「………知ってます」
「その人が、何故俺を庇う」
露草は、笑う。
「何故、なぜ、と……意味など必要ありますか? 僕があなたを護りたかった…それだけだ」
違う。そうじゃない。
云えない自分が、土蜘蛛には恨めしい。
露草を護りたかったのは土蜘蛛だ。身を投げ打ってでも護る覚悟もあった。
だのに、何故お前が俺を庇う。
――人を動かすのは理屈じゃない。だのに、理屈じゃない事に、人は平気で命を賭けるのです。
俺などのために、命を落とす。
「露草殿、喋ると傷が…」
「いいの、です。どの道僕は、そう長くは…もたない」
露草は、痺れる唇を動かす。
その前に、伝えなくちゃならない言葉がある。
「土蜘蛛様、あり、がとう。……あなたのおかげで僕は、毎日が、楽しくて…。屋敷、から、道を見下ろす時間が……好きで…。今は…幸せだ…」
指先の感覚も、もうない。
「見ず知らない京の人間の生き死になんて、僕には…どうでもいい事です。 ――僕が幸せを願っているのは、僕の手で護れる、ほんの……小さな人数で…あなたは、その中の一番だった。……僕の命より、大切だった。…それだけだ」
嗚呼。
土蜘蛛は、何かを堪えるように手のひらで目元を覆った。
この子も同じ決意を抱いていたと云うのか。
奇しくも土蜘蛛を護る為に。
露草は、自らが涙を流している事にも気づかなかった。
それを知らせてくれたのは、誰かの指が、彼の目元を滑ったからだ。
「………馬鹿な、人間だな…」
その指先が土蜘蛛のものだというのは、耳元で聞こえた声が、あまりにも近かったから。
想像もしなかった彼の優しい声音に、露草は下唇を噛んだ。
「僕は、女になりとうございました」
云うつもりもなかった言葉が、口を吐いて出る。
自分の奥底に閉じ込めて、蓋をしていた想いが次々と溢れ出した。
「身体だけでもいい、あなたに、あなたに…愛されとうございました。でも、僕には、それが…か、叶わないから……せめて、せめて、あなたが幸せなら、僕も幸せだと思えた」
伝わって欲しい。上手く言葉に出来ないこの想い。
出来るだけ露草の感じるものに近い想いが、届くように。
「逢えて良かった。僕が男で良かった。この恋で良かった。 ………あなたに抱かれる事は出来なくても、愛される事が出来なくても。 ――どうか、この想いが、あなたを、護りますよう、に」
「露草」
「……露草」
不思議だ。
茶々の声が聞こえた気がした。
土蜘蛛の次に、愛しい少女の声。
「嗚呼…茶々の声も聞こえる気がする…。土蜘蛛様と、茶々の声に見取られるなんて…やっぱり僕は、幸せ者だなあ…」
茶々、と呼ぶ声が掠れる。
意識が遠のく。
それでも、最後の一言まで告げたい。この世界に刻まれた想いが、露草が死んでも残るように。形作るように。
「土蜘蛛様を、想う気持ちを教えてくれて、ありがとう…。…………茶々…、…どうか、どうか…」
――露草。誰かを想うって、こんなに幸せな事なのね。
脳裏に、幼い二人の記憶が過ぎる。
ふっくらとした頬を朱に染めて、指先を絡めて、愛しそうに想いを語る茶々の姿。
――どうして、嫌いになれないのっ!
愛し方こそ変わっても、今も昔も、彼女は一途に人を想える強さを持った子だから。
どうか。
「君の恋が、実り、ます…ように…」
露草の意識は、そこで途切れた。
茶々は手を伸ばしたまま、縫い付けられたようにその場で固まっていた。
露草の瞳が、眠るように閉じられる。その仕草をただ呆然と見ているしかなかった。
「つゆ、くさ…」
狛に連れられて来た時、彼はもうすでに虫の息で、土蜘蛛の腕の中にいた。
あの土蜘蛛が、人のような情を見せている。
駆け寄って彼を突き飛ばし、露草の手を握る事だって出来たのに、目の前にある光景がそうする事を躊躇わせた。
見ている事しか出来ない。
露草を救う手立てがない事は、頭の中が冷静に判断している。神威の時のように、上手くは行かない。
あの時は薬師丸がたまたま、自分の傷のために煎じた薬を持っていた。だが、露草は違う。一から薬を作っていくのに、彼の体は持たない。
それでも、助ける事が出来たなら。
双方の想いが、茶々の身体を強張らせる。
そうしている間に、露草は事切れた。土蜘蛛の胸に抱かれて、幸せそうに目を閉じて行く。
茶々の時が、ようやく動き出した。
「露草」
ふらふらと前へ歩き出した茶々の身体を、何かが支えた。首を巡らせると、そっと神威が寄り添っている。突き飛ばす気は起きなかった。
二人して露草の側へ寄ると、彼の顔がよく見えるようにしゃがみこむ。
そっと伸ばした指先で、茶々は彼の前髪をかきあげた。指先に触れる彼の身体は、まだほんのりと温かい。それが最後の灯火のように思えて、茶々は、両手で露草の頬を包み込んだ。
「露草ってば、馬鹿ねぇ」
ぽつりと、呟く。
「人の幸せを願って死ぬなんて、……あまりに、自分勝手だわ」
茶々と露草は、似たような世界に居た。同じものを見、同じものに触れて来た。家族から離れた。時折会って笑っては、似たような境遇を持つ自分達の匂いに救われてきた。
だのに、こんなにも他人の愛し方は違ってしまった。
「それで、あたしに愛する気持ちを教えて貰った、なんて云ったら……あたしが露草を殺したみたいじゃない」
「――茶々様」
「でも、露草は幸せなんだね。 ……こんな綺麗な顔で…」
瞼にそっと口付けを落とした茶々は、笑顔のまま動かない彼の顔を、一つ一つ、辿るようになぞって行く。
ふと、笑顔を浮かべて、
「なら、あたしも幸せだわ。そしてこれからも、あなたに負けないくらい幸せでいる」
茶々の瞳から零れた涙が、露草の目尻に落ちた。つう、と流れる。まるで、露草が茶々に応えているようだった。
露草に聞こえているだろうか。
きっと、聞こえているはず。
「いつかまた、河の向こうで会いましょう。河辺に腰掛けて、一生分の思い出を二人で語るのよ。 ――その時まであたしは、あなたが全身を賭けて教えてくれた事を忘れずに、全力で生きるわ。大好きよ、露草」
自分の小指と、露草の小指を絡ませて、茶々は彼の頬に口付けた。
そうして目の前に座る土蜘蛛に、顔を上げて訊ねる。
「あなたはこれからどうするの?」
「これでもう、人斬り土蜘蛛は現われない。俺の用事は済んだ。当初の約束は違えてしまったが、俺はまた、京を出よう」
土蜘蛛は、しばし黙った。
腕の中で眠る露草をそっと抱く。
そして、
「頼みがある。露草の遺体を、俺に埋葬させて欲しい」
頭を下げた。
「無粋な頼みだと云うのは重々承知だ。それでも、俺が棲む近くに、彼の遺体を置く事を許して貰えまいか。 ――頼む、茶々」
茶々は、土蜘蛛を見つめた。
露草が混沌と呼んだ、土蜘蛛の両肩に乗っていた人の恨み辛み。それが無くなっている。きっと、露草が共に連れて行ったに違いない。
土蜘蛛の顔も随分と気色がいい。
そこまで見届けるようにして、茶々はしっかりと頷いた。
言葉なくとも、共に行く事を、露草が望んでいる印のように思えたから。
「露草も、その方がきっと喜ぶわ」
「……恩に着る」
短く返して、土蜘蛛は露草の身体を抱え上げた。
「俺はこの子に、何を返してやる事も出来ない。こうなった今、身体を愛してやる事も、魂を愛してやる事も叶わない。 ――だが、この生を全うするまで、俺は露草と共に生きる事を誓おう」
どろんと、煙が舞い上がる。
濃い煙の奥から現われた姿に、茶々は目を見開いた。
露草だ。少し大人びた露草が、露草の遺体を両手に立っている。
土蜘蛛が化けた露草は、顔こそ彼のものと云え、身体つきは女であった。豊満な胸に、曲線美の身体。その身に、統領にも負けぬ艶やかな唐衣を纏っていた。黒色に金で縁取られた蜘蛛の巣。帯は深紅。紅で彩られた唇が、切なげに笑む。
「土蜘蛛の名を、捨てる。背負うべき罪は背負ったまま、それでも、この子と生きるために」
「名は?」
茶々は訊ねた。
冷たい風が吹く。終わりかけた夏草の間を駆けて、その最後の香りが鼻腔をくすぐった。その匂いを腹いっぱいに吸い込むように、彼は大きく息を吸い、
「名は――女郎。女郎蜘蛛、と」
ふわりと、笑顔を浮かべた。
その笑顔が露草と重なる。
茶々は知らず知らずのうちに、隣に座る神威の手を握り締めていた。神威もまた、それを握り返す。
止まったはずの涙が、ぶわり、溢れた。
「あり、がとう」
「礼を云うのは俺の方だ。露草と共に在る事を決めた以上、お前の式にはなれぬ。 …それでもお前たちに何かあれば、俺と露草が駆けつけよう」
そう云って、女郎蜘蛛は背を向ける。
立ち去ろうと踏み出した一歩を止めて、女郎蜘蛛は俯いた。
「茶々」
「……何?」
――あなたを殺してはあげないわ、土蜘蛛。 ……生きなさい。
――逢えて良かった。僕が男で良かった。この恋で良かった。
「あの時、俺を生かしてくれてありがとう」
ポツリと零すように、女郎蜘蛛は云う。
この恋で良かった、そう云った彼に恥じぬよう。
「茶々、人とは……」
――人は憎い。
「人とは」
――どうか、この想いが、あなたを、護りますよう、に。
「………人とは、悲しくも強い。 …愛らしい生き物だな」
その言葉に、茶々はぐいと袖で涙を拭うと、微笑んだ。
「本当ね」
首だけを巡らせた女郎蜘蛛も、優美に笑う。
「遠い地で、お前達の幸せを願っている」
沈む夜と共に、夏は終わった。




