ろく、きみおもふ
季節は、秋。
綺麗な月だ。寒空は満ちた月がよく映えた。
音を立てて、襖が開く。
窓からぼうと外を見ていた葛は、首を巡らせた。
「禅か」
禅は今、人の型を取っている。五歳ほどの童子であった。ちょこんと髷を乗せた姿に似合わぬ、大人びた目を細めて笑う。
彼は葛の傍に腰を落とすと、訊ねた。
「――考え事ですか? 清明様」
「ああ、人嫌いの姫の事を…ちょっとね」
云って、桜の花びらのような唇を緩めるように笑う。
茶々だといえばいいのに、またずいぶんと回りくどい言い方をする。
禅は、葛――安部清明を呆れたように眺めた。
「好きだと仰れば良かったのです。恋をしているのだと伝えれば、あなたが茶々を救う未来もあったはず」
咎めるような口調になってしまうのは仕方がない。式となるは、主を一番と認めることと同義だ。
目の前のこの男より素晴らしい人間などいない、と、禅は思う。
それでも彼は、茶々と神威を再び引き合わせる道を取った。これまた回りくどい手を使って。
彼曰く、その過程を思案するのが愉快だと云うが。その言葉が本心なのかが、また分からない。単純に、茶々に安部清明だと伏せておきたかっただけのような気もする。
どちらにしろ、つくづく酔狂な男だ。興味が尽きない。やはり、清明の方が良い男だと思うのだが。
まじまじと清明を見る禅に、彼はパチリと瞬くと、噴出すようにして笑った。
「確かに、そんな未来もあったかも知れない。 ……だけど僕じゃあ、あそこまで茶々の心を救う事は出来ないよ。だからわざわざ、神威と茶々を引き合わせたのさ」
禅は俯くと、
「……それが分かってしまうと云うのも、辛いですね」
静かに目を伏せる。
しばし訪れた沈黙に、清明は鼻をかいた。
「それになあ、恋をしているなどと伝えるのは、あまりに恥ずかしすぎる。呪をかけるほうがよほど容易い」
そう云って、納得したようにポンと手を打った。
「嗚呼、僕はやっぱり、陰陽師なのだろうね」
ふうわりと、秋桜の匂いが吹き込んでくる。風が、清明の髪を撫ぜる。
「人嫌いの姫は、再び人を愛する事ができるでしょうか?」
禅の問いに、清明は笑った。
「後はあの二人次第だなあ。 だけれど……選んだ先には、常に運命がある。良きにしろ、悪きにしろ、ね」
安部清明が、唯一無二と謳われる陰陽師への道を辿る事を決めたように。
いずれ、葛と云う名では誤魔化せなくなる時も、来るのかもしれない。
その前に。
「――禅、ここは陰陽師らしく、呪でもかけてみるかい?」
「呪を?」
コトリ、と、首を傾げた禅に、清明は人差し指を唇に添えると、ふっと息を吹きかける。
「なに、この世で一番簡単な呪さ」
山奥に棲む、引きこもりの姫。人嫌いの姫。
母親が妖だと聞いて、最初は気まぐれに会いに出かけた。
賑やかな妖に囲まれて、語りかける自然の中で、茶々は笑う。
その生き様に想いを奪われた。
安部清明は、風に謳うように呪を唱える。
「茶々よ、幸せになれ」
屋敷には、秋桜が群を為して咲いている。その高い背に咲かせた花々から香る芳醇な匂いが、屋敷一杯に満ち足りていた。
その香りに酔うように、神威は書物をめくる。
枯れた葉を擦り合わせ、桜が今日も、サラサラと音を奏でていた。
神威は再び、ここで生活を始めた。それも、自らの屋敷から生活道具一式と、こつこつと書き写した書物の数々とを持ち込んで。
茶々はあの夜、神威に呪をかけた。この屋敷に自由に出入りできる呪を。
いいんですか?
そう訊ねた神威に、茶々は小さく笑って、
――もう逃げないわ。あなたからも、あたしからも。
応えた。
その茶々はと云えば、
「秋と云えば、茸ね。でも、そう云えば、以前河で採れた魚を頂いたのが美味しかったわね。狛」
畳の上に、ごろんと横になって空を見上げている。
行儀が悪いですよ、と云えば、じゃあ見えない所に行けば? と、しゃあしゃあ返された。それでも屋敷を出て行けといわなくなっただけ、彼女の胸の内が変わった事が出ているのか。
それにしても。
神威は書物を読む振りをして、部屋の様子を眺めた。
壁に背を預けて、神威と同じように事の成り行きを見ている薬師丸に、くすくすと笑っている鬼灯。茶々と同じように寝転んでいた狛が、不満気に口を尖らした。
「――どうして俺が名指しなんだよ」
「食べたい」
「それは俺に採りに行けって事か!」
畳を弾くようにして、狛が身を起こす。茶々が無言で頷くと、しばし狛と茶々がにらみ合った。やがて、ふてくされた狛が客間から出て行く。
あの件が済んでからと云うもの、茶々はやたらと狛に絡む。
我侭を云った方にも関わらず、面白くなさそうな面構えで天井を見上げている茶々に、薬師丸が笑いながら声をかけた。
「いいかげん、許してあげたらどうです? あれも元は狛犬。他人の願いを無碍には出来ない。たとえそれが、仕える主の意にそぐわぬものだとしても…。 ――あなたもそこを気に入ったと覚えていますが」
茶々は小さく、分かっているわよ、と、呟いた。
「土蜘蛛を追う事が、露草の願いだった。狛はその気持ちを、見て見ぬ振りが出来なかった。あたしもそれをちゃんと理解したつもり。 ……でも、どうして行かせたの、と、思ってしまうのよ。どうしても……」
薬師丸は笑うばかりで応えない。
自分が投げかけたくせに中途半端な、と神威はため息を吐きながら、書物を降ろした。
「茶々様の気持ちが分かっているからこそ、狛は、文句こそ云うものの、我侭を聞いているのだと思いますよ」
やんわりと口を挟んだ神威に、茶々は下唇を突き出しながら、
「……そーよ。それでいて、ケロッとした顔で云うんだわ」
云うと、薬師丸が続いた。遠い記憶を追うように、宙を向く。
「――自分がした事を間違ってるとは思わない、でしょう?」
「主の云う事に背いて我は通すくせに、そういう所は変に大人なのよね、狛のヤツ」
「俺はどこかの姫様によく似ていると思いますけどね」
「神威、何か云った?」
にっこりと向けられた笑顔に、神威もまた、笑みを返す。
「いえ、何も」
その様子を見て、鬼灯がくすくすと笑った。橙色の唐衣の上で、艶やかな黒い髪が踊る。
「良かったですわ、神威様が尋ねて来て下さって。 ――また茶々様の、こんな元気な姿が見られましたもの」
「残念ながら、跳ね返りは直りませんでしたが、ね」
「まあ、薬師丸ったら」
鬼灯が声を上げて笑った。
気のせいか、鬼灯もよく笑うようになったと神威は思う。最初に会った時はどこか物静かで、憂いがあったが。
それにしても、と、神威は思い出したように口を開いた。
「と云う事は、以前俺が屋敷に来た折も、鬼灯はすでに居たと云う事か」
その時何故か、茶々がブッと噴出した。彼女は起き上がると、般若のような気迫で神威へと詰め寄ってくる。
「そんな事どうだっていいでしょう? 今ここに鬼灯がいるんだから、それが全てだわ。くだらない話はやめて頂戴」
「はあ…。 ですが、鬼灯にはかなり助けられましたし…」
「それは…っ」
反射的に出かけた言葉を、茶々は飲み込むような仕草を見せた。そのまま、逃げるように目を逸らす。そんな茶々の後ろで、鬼灯は華もほころぶような笑顔を見せた。
「それは当然ですわ。わたくしにしてみれば、茶々様も神威様も、主でございますから」
「俺も?」
「ええ。覚えてらっしゃいませんか? わたくしの事」
「ちょっと、鬼灯。それは内緒だって云ったでしょう!」
バタバタと茶々が駆け寄る前に、鬼灯は静かに言葉を紡いだ。
「――あなたに繋いで貰ったこの命を、俺は、確かに生きて行く。だからいつか……もう一度会おう」
神威の動きが止まる。
遅れて、わっ、と鬼灯の口を押さえに掛かった茶々の耳は、真っ赤に染まっていた。
その言葉を知るのは、神威と、茶々――そして、彼女の手に握られていた鬼灯だけ。
「まさか、俺が茶々様に渡した……鬼灯、か?」
喋られずとも、鬼灯はこくりと頷く。
途端に、ぎゃああああ、と断末魔のような悲鳴を上げた茶々は、頭を抱えるようにして畳にしゃがみこんだ。
「鬼灯のバカー! 内緒だって云ったのにッ」
釣られて神威も赤くなっていると、そんな彼を、茶々はキッと睨んだ。
「勘違いしないでよね! あれは、せっかく頂いた花が勿体無いから、乾燥させて持っていただけなのよ。そしたら、魂が宿って…」
ごにょごにょと言葉尻を濁したのは、自分でも言い訳染みていると分かっているからなのだろう。唸るなり俯いてしまった茶々の代わりに、薬師丸が付け足した。
「後生大事に持っていると、泣いていましたものね」
「薬師丸!」
ふふふ、と薬師丸が鮮やかに笑う。
「あれでは、命が宿って当然だと云う話をしているだけですよ。わたしは」
「あーもう! 狛はどこに行ったのよ! 主が敵に囲まれてるのに、助けに来ないなんて、式失格だわ!」
地団駄を踏むなり、わなわなと肩を震わせて怒る茶々。とんだ言い草を哀れに思った神威は、
「茶々様が、雑用言いつけて追い出したのでは?」
こほんと咳払いをして問う。すぐさま茶々は切り替えした。
「黙れ! 敵!」
「………俺も敵ですか」
駄目だ、もう手が付けられない。こうなった茶々は時間が過ぎないと大人しくならないことは、この一ヶ月余りで十分知った。どれだけ静まったにしろ、狛が帰ってきたら、また再加熱するに違いない。
神威はふ、と、笑んだ。
「――本当、いい性格になりましたね、茶々様」
「あなただって、随分嫌味が上手になったわ」
茶々も、負けじと笑う。
あの頃には戻れない。ついてしまった傷も癒えない。
それは互いが一番よく分かっている。
――君の恋が、実り、ます…ように…
ならば、癒えぬ傷ごと連れて歩こう。
何度も巡る夏が来るたび、共に、この記憶を鮮明に思い出しながら。




