ご、露草-2
四年前、か。
土蜘蛛にはそれが、遥か遠い昔の事のように思い返された。
屈辱と呼ぶのも馬鹿らしい程、清々しい敗北。目の前に立つこの男に、完膚なきまでに叩きのめされた。
「白き鵺、薬師丸」
名を呼ぶと、あの時噛んだ砂の味が蘇ってくる。地に伏して見上げたこの男の美しさと云えば、言葉では語れない。
薬師丸は答えるように、唇に笑みを含む。
「またあなたと手合わせする日が来るとは思いませんでしたよ、土蜘蛛」
土蜘蛛もまた笑いながら、
「俺も、自分がそんな愚かな男とは思わなんだ」
刀に手をかけた。
京の夜闇は深い。少し先にいる相手の姿を窺うのも一苦労だ。その分、息遣いやほんの僅かな衣擦れの音がよく響く。
耳を澄ました土蜘蛛だが、薬師丸に動く気配はない。
それ所か彼は得物を取る事もせず、
「何故京に? 我が主と、もう二度と京の地へは戻らないと誓ったはず」
問うて来た。
土蜘蛛が嘲笑する。
「まだ慈悲を向けるのか? ……主に似て、お優しいものだな」
「わたしも茶々様に牙を抜かれた妖の一人ですからね」
ふふ、と、薬師丸が声をあげて笑った。
この状況で無邪気に笑えるこの男は、やはりただ者ではない。意図してなのか、威圧されるよりも辛い重圧が土蜘蛛に圧し掛かった。 ――本当に、京には二度と戻って来たくはなかったものだ、と、彼はしみじみ思う。
重圧に飲まれぬよう、土蜘蛛は大きく呼吸した。
「何故と云う問いが好きだな、お前達は」
四年前。
切り捨てられた女と、切り捨てた土蜘蛛を見て、茶々は顔色一つ変えずに、何故、と訊ねて来た。
何故人を殺すの、と。
同じ事を思い出していたのだろう。薬師丸が微笑む。
「あの時あなたは人が憎いとお答えになりましたが、おそらく茶々様は、ご自分の考えを打破できるような、もっともな理由が欲しかったのだと思いますよ。殺してすむのなら殺したかったのでしょう。 …それが一之宮様だったのか、ご自分だったのかは、わたしには計り知れませんが」
少女の瞳は、色がなかった。
哀れみも悲しみもなく、ボロ布のようになった女を指差した彼女。
ただ何故と、繰り返し土蜘蛛に訊ねた。
「悲しき娘だな、アレは。人にもなれず、妖にもなれない」
「人一倍お優しい方ですから、鬼にもなれませんでしょう。 ……お忘れですか? あの後云った、茶々様の言葉を」
だからこそ、と云って、薬師丸が始めて動いた。
そっと宙にかざした手に、彼の身長よりも高い鎌が現われる。
「だからこそ、茶々様は茶々様なのです。妖でも、鬼でも、ましてや人である必要もない。あの人の見る世界がわたしは好きで、護ると決めた。 ――もう一度問います。何故この京に戻って来たのですか? 土蜘蛛」
土蜘蛛は何も云わず、宙を仰いだ。
――ねぇ、土蜘蛛。
湿った風が心地よい。
思い返すは、薬師丸と狛との戦いに敗れ地に伏した土蜘蛛に、彼女が淡々とかけた言葉。
――人は、確かに醜いわ。寿命なんて甘っちょろい事云っていないで、さっさと殺しちゃえばいいのにと思うの。他人も、あたしも。
土の匂いが鼻腔をくすぐる。
――でもきっと、本当に死ぬためだけにここに在るなら、寿命なんて必要ないわ。死ぬために人は生かされていて、生かされるために人は死ぬの。人は自分が背負う罪を決めて生まれて来るのよ。寿命を全うする意味はそこにあると、あたしは思う。
再び同じ地へと戻って来た土蜘蛛は、
――草花も虫も、動物も人も、妖も、どんな生き物も、寿命がある以上は、寿命を全うするべきなのよ。例え望むものが、死だったとしても。
刀を持つ手に力を籠めた。
――あなたを殺してはあげないわ、土蜘蛛。 ……生きなさい。
京を出た土蜘蛛が目にした人々は確かに醜くあった。人は何も変わらない。
ただ茶々の言葉を聴いて、見ようによれば、醜い中で必死に生きようとする人間を愛らしくも思えた。
人も捨てたものではない。
そう思うには、彼の手は人の血に染まりすぎていたが。
間もなく、京で再び辻斬りが起きはじめた。仕業がとにかく、土蜘蛛に似ている。模倣犯だとすぐに分かった。土蜘蛛の名を借りて、何かがまた、人の命を奪っている。
居ても立ってもいられなかった。
懺悔などと、綺麗な言葉で片付けるつもりはない。
一日何人と死んでいく人々を救いたいと思った訳でもない。
ただ土蜘蛛の名の下に、これ以上犠牲が出るのは耐えられなかった。そうして土蜘蛛は、己の亡霊を葬るために京へ戻って来た。
ただ――薬師丸を前にした今、土蜘蛛は京に戻って来た事を後悔しつつある。
これほどの恐怖を前に、挑む価値があるものなのだろうか。
土蜘蛛が幾人を殺めた事は何一つ変わらないと云うのに?
傷を負うばかりで、結果、何も成さないのではないか。
身体が強張る。
その時、どこからか青年の声が聞こえて来た気がした。
――よほど、癖のある生を送られて来たのですね。
その言葉を思い返すと、こんな場面だと云うのに笑いが込み上げてくる。
ようやく掴んだ亡霊の手がかりを追って、たどり着いた夜の京。そこで出会った一人の青年。
彼は何一つ知らない。
土蜘蛛が幾人を殺めたのか。茶々の式に、どれほど無残な敗北をしたのか。屍のように過ごした日々は、どんなものであったのか。
何も知らない露草は、たった一言でそれを片付けてしまった。
驚いた。笑えた。
柄にもなく頭など撫でてしまうと、青年は瞳が零れるくらいに驚いて、土蜘蛛に名を尋ねて来た。忌々しい、土蜘蛛の名を。
それを答える気になった理由は、自分にもよく分からない。
彼が、土蜘蛛の事を知らなかったからだろうか。辻斬り犯としての土蜘蛛を、こうして京に戻って来た土蜘蛛を。
何一つ知らない彼を前にして、自分が罪人だと云う事を忘れさせてくれるような気がしたからなのかもしれない。
名乗ると、彼は大切な物を貰ったように、
――土蜘蛛、様…。
土蜘蛛の名を繰り返した。
亡霊を追うつかの間の時間だ。奴を仕留めたら、土蜘蛛は再び京を出る。
そう言い聞かせながら会う、露草と、罪人ではない土蜘蛛の時間。
そんな夢のような、ぬるま湯のような時間がいつまでも続くはずはないけれども、そんな時間が土蜘蛛に与えたのは、一つの決意。
何としてでも亡霊を仕留めなければならない。
こんな綺麗な子が住む京を、これ以上穢してはならない。ましてやこの子を、亡霊の魔の手にかけてはならない。
京に居る幾人を護るより、よほど実質的だった。
逃げるわけにはいかない。
例えこの身が果てようとやり遂げなければならない。
恐怖を上回る決意が、再び土蜘蛛の胸に燃えた。
土蜘蛛は笑う。
「――理由など……云えぬよ」
云って、先に地を蹴った。
彼は雄たけびと共に、薬師丸へ向かって行く。
「うぉおおおおお!」
刀と鎌がぶつかる音が響き渡った。力比べのような小競り合いもつかの間、薬師丸は後方へと飛んで間合いを取ると、勢いで前へと踏み出した土蜘蛛の横面を蹴り飛ばす。
「ッ」
構わず土蜘蛛は、その足首を掴んだ。力任せに引き寄せると、薬師丸の鳩尾に、刀の柄を叩き込む。
薬師丸の丹精な顔が痛みに歪んだように見えたのは一瞬の事で、瞬く間に、薬師丸の姿が掻き消えた。
刹那、背後から風を斬る音が聞こえた土蜘蛛は、すぐさま振り返り鎌を受け止めようと試みる。が、鎌が来るより先に訪れた爆風に、身体もろとも吹き飛ばされた。
激しく背中を打ちつけ、転がりながらも体勢を持ち直す。薬師丸がいるであろう方角を見据えて、固唾をのんだ。
圧倒的な力量の差。
一度負けた覚えがあるからこそ、その差を冷静に判断出来る自分がいる。
かつての自分は、こんな男に勝とうと挑んだと云うのか。
ざわざわ、と。
土蜘蛛は背筋が震えるのを感じながらも、笑みを繕った。
「相変わらず……目が見えぬとは思えぬ動きだな」
土蜘蛛の言葉に闇が答える。
「生憎と、目が見えぬ事を不自由と感じた事はありませんよ。他の感覚で十二分にまかなえます」
ゆうらりと、夜闇に白銀が浮かび上がる。
鳩尾を突かれた衝撃で、彼の口元には血が滲んでいた。拭い取った跡がある。
「目が見えぬ事で不自由があるとすれば……そうですね」
真っ赤な血にぬれる唇は、まるで紅を引いたようであった。
「それは、命を捧げると決めた主の顔を知らぬ事、でしょうか」
ポツリと落とすように呟いて、薬師丸の姿がまた消えた。
間違いなく視界に捉えていたはずだ。それは、土蜘蛛が目で追うよりも、薬師丸の速さの方が圧倒的に勝っているという事を意味する。
ならば、と、土蜘蛛は糸を吐いた。
しゅるしゅると伸びて行く糸が、木に、古びた家屋にくっつき巣を成す。あたり一体に、透明な糸が張り巡らされた。
「ほう」
薬師丸の愉快気な声がどこからか聞こえる。
即席で作った蜘蛛の巣では、相手を捕らえる程の罠にはならない。
それでも。
土蜘蛛は襲って来た鎌を、今度はなんなくと受け止めた。
土蜘蛛が、ふ、と笑むと、
「なるほど。確かにこれだと、目で追えなくとも分かると云う事ですか」
薬師丸もにんまりと微笑む。
薬師丸が動くことによって揺れた風が、糸を振動して土蜘蛛に伝える。それだけでない。薬師丸が生む爆風も、糸を介す事によって勢いを殺す。
薬師丸の速さに対する突破口は出来た。
再び刃と刃をぶつけたこの後を、どう動くか。
薬師丸の押しに負けて、ジリジリと草履が土を噛む。
自分が薬師丸と戦っているのか、じわじわと押し寄せてくる恐怖と戦っているのか、それすらも分からなくなってきた。
目の前の男が、果てしない化け物に見えてくる。
それでも後には引けない。
土蜘蛛は、自分に言い聞かす様云う。
「俺はここで、倒れる訳にはいかない」
苦いものを噛むようであった。
ぽつり、ぽつりと云う。
「ようやく、ようやく俺の亡霊に辿りつけそうな今。あの時のように、地に伏す訳にはいくまいよ。 ――なあ、薬師丸。貴様になら分かるであろう」
そこまで云って、土蜘蛛は腹を括ったようにニヤリと口角を持ち上げて、不適に笑んだ。
「負けると分かっていても、引けぬ戦いがある」
薬師丸の顔面目掛けて吐いた糸を、彼が避ける隙に、土蜘蛛は力押しで鎌をはじき返す。
懐に潜り込んだ土蜘蛛は、薬師丸の腹を一線、斬り付けた。
飛び散る鮮血。
血の向こうで、薬師丸の笑顔が見えた。
何かを企んでいる。
その意図をくむ間もなく、横から飛んできた鉄の塊が、土蜘蛛の脇腹を殴りつけた。肋骨が軋む音が聞こえ、吹っ飛ばされた彼は砂埃を上げて地面に転がり落ちる。
「なに、を――」
痛みに霞んだ瞳に映ったのは、鎖。薬師丸の手に握られた得物の持ち手の方から、長い鎖が伸びていた。その先端には、重い鉄球がぶら下がっている。
いつの間に、とは、くぐもるばかりで言葉にならない。
芋虫のように身を捩る土蜘蛛を、薬師丸は鉄球を手に涼しく見下ろしていた。その腹は自らの血で赤く染まっているが、彼はその微笑に、僅かな痛みも感じさせない。
「鵺は猿の顔を持ち、蛇の尾を持つ生き物。わたしの得物も、鎌だけではないのですよ」
土蜘蛛は笑んだ。
いっそ愉快なほど、一手も二手も先を用意している男だ。笑うしかないとは、まさにこの事。
何と云う残酷な男か。
彼は震える両手を、何とか地面についた。
「相変わらず、喰えない……な」
ゆっくりと時間をかけて身を起こす。
「やはり、俺は殺さぬか」
薬師丸は笑うばかりで答えない。
この間があれば、十分土蜘蛛に止めを刺す事が出来るはず。
忌々しい。
土蜘蛛は、唾を地面に吐き捨てた。
「妖の情より、人の情けを取るか、薬師丸」
薬師丸は場に不釣合いなほど軽く、ひょいと肩をすくめてみせる。
「そうは云いますが、人の情けというのもなかなか興味深いものですよ。土蜘蛛」
月の光を浴びて、薬師丸の髪が青く靡いた。
「人を動かすのは理屈じゃない。だのに、理屈じゃない事に、人は平気で命を賭けるのです」
そして、と、彼は俯いた唇に弧を描いた。
「わたしは妖ながら、そういう感情にのまれてみるのも悪くないか、と、思わせる」
ようやく立ち上がった土蜘蛛は、脇腹を支える手を外し、刀を持ち直した。
そんな彼に諭すよう、薬師丸は首を横に振る。
「もういいでしょう。土蜘蛛」
「――何?」
「何度立ち向かおうとも、あなたはわたしには勝てない。わたしはあなたを殺す気はない。ならば、一言云ってみてはどうです?」
「……」
「共に亡霊を討って欲しい、と」
刀を握る土蜘蛛の手に、緊張が走る。
何を、と、もう一度訊ねれば、薬師丸は笑みを深くした。
「我が主なら、いくらでも手を貸しましょう」
「――ッ」
心臓が、跳ぶように鳴り響く。
乾いた喉。
口を開きかけた時、目の前に立つ薬師丸がピクリと身体を浮かした。光の射さない彼の瞳が向けられているのは、土蜘蛛の背後。
露草殿、と云う言葉に首を巡らせた土蜘蛛は、いつの間にか背後に立っていた窮鼠を見、駆けて来ている露草を瞳一杯に映した。
「――土蜘蛛様ッ」




