ご、露草-1
刻は少し前に遡る。
統領へと化けた神威を茶々の居る客間へと見送って、露草は元来た道を戻っていた。茶々には仕度をしてくると告げたまま、ひたひたと冷たい床を歩いて行く。
足音を殺すようにしていた足取りは、気持ちに急かされるように次第に早足となった。
「土蜘蛛様…」
茶々が露草に告げられなかった事も、何となく予想がついていた。
彼は――四年前の辻斬りの犯人。
そしていま、京は似たような事件の渦中にある。
間違いない。茶々は蜘蛛を疑っている。彼女が蜘蛛を見つける前に、何としてでも探し出さなければ行けない。
京を出て欲しいと露草が云った所で、彼にそれを聞く義理もないのだが、それでも伝えないと気がすまなかった。
今すぐにでも京を出て。茶々の式が届かぬ場所まで逃げて。
草履をつっかけて、露草は屋敷を出る。
どこへ行けばいいのだろう。
右を見て、左を見て、露草は焦る気持ちを沈めようと努める。立ち止まったのはしばしの間で、露草は河沿いを下り始めた。初めて蜘蛛に会った場所を通り過ぎる。
二度目、三度目と言葉を交わしたが、一度だけ、土蜘蛛が知らない、露草だけの時間がある。彼の後ろ姿をつけたのだ。
昔、茶々に聞いたまじない。
――ねえ、露草。想い人の家の近くにある萩の葉を結ぶとね、願いが叶うんですって。
試すも試さないもそもそも、露草には望みのない恋だったけれど、だからこそ、この恋を楽しまなければと思った。いい思い出にしなければ、と、彼の跡をつけた。
結局、途中で夜闇に紛れて見失ってしまったけれど、確かに彼は、この方向へ歩いていた。
寝巻きの裾が乱れるのにも構わず、全速力で夜の京を駆ける。
早く、早く急がねば。
茶々は一人だった。いつも狛が彼女の近くに在るから、今日もきっとそう。あの忠と云う男の動向は心配だが、狛がついているのなら、大丈夫。
そう考えてみると、土蜘蛛を追っているのは、間違いなく薬師丸だと云う事になる。今の露草にとって、そちらの方が心配だった。詳しくは知らなくても、彼が最強の式だと云う話を聞き及んだ事がある。土蜘蛛が彼と鉢合ったら不味い。
息を乱して走る露草の瞳に、夜闇が濃く見えた。
目を凝らしてみると、どうやら人影のようで、だんだんと近づいてくるその姿に、露草は、あ、と声を上げる。
土蜘蛛ではない。だが知りあいだ。
いつも忠の後ろに控えている、家人。背を丸めて、手ぬぐいを巻いた顔を俯かせている。薄気味悪い姿だ。
それでも露草には、立ち止まる暇はない。
勇気を出して彼の側を通り過ぎようと決意した時、男が口を開いた。
「もし」
低い声だった。
話しかけられては立ち止まらない訳にも行かず、露草は草履を擦って足を止める。
「――何でしょう?」
男がちらりと露草を見た。
その瞬間、手ぬぐいから見えた家人の顔が獣だった事に、露草は声にならない悲鳴をあげる。
鼠であった。
鼻は天高く、褪せた灰色の毛が生えている。ただ鼠の割りに、歯が鋭く、犬馬があった。長い舌を覗かせて、ふしゅう、と黄色い息を吐く。
『もし』
もう一度、男は問うて来た。
そうして、声の出ない露草の返事をまたず、続ける。
『死んでは頂けませぬか』
「逃げろ、露草!」
家人の声に、もう一つ、男の声が重なった。
露草の隣を、狛が駆けて行く。彼は瞬く間に姿を大犬へと変えると、鼠に覆い被さった。
がう、と咆える。
そのままもつれ合うようにして二匹は土の上を転がった。爪で顔を引っかかれて、狛がひるんだようにのけぞる。
その隙に、家人は狛の首に噛み付いた。
『糞!』
狛が離れる。
彼は首から流れる血を払うように、大きく首を横に振った。ち、と舌打つ。
『窮鼠風情が、生意気な』
『狛犬ごときが、口を挟むではない』
鼠の口から、真っ赤な血が滴った。
『こちらは親切心よ。愛する者と共に葬ってやろうと云うのだからな』
『何?』
怪訝な顔をした狛の後ろで、露草がポツリと呟いた。
「……土蜘蛛様」
地を蹴って走りだした露草の先には、家人。狛はおい、と声を荒げた。
『露草! 早まるなッ』
それでも、彼は止まらない。
家人に向かって真っ直ぐと駆けて行く彼の姿を見て、意を決した狛は、家人の体に体当たりした。そのまま再び、もつれ合って転がる。
露草へ道を開いた彼の行動に、驚いた露草は、背後を振り返った。
「狛!」
狛はジタバタと暴れる家人を、その四本の足で押さえ込んでいる。
『コイツは俺が抑えておく。行け、露草! こいつ等が何かを企んでる事、薬師丸に伝えろ、そうすれば――!』
狛が、言いかけた言葉を喉に詰まらせた。
噛まれて距離を取るも、再び走り出した露草を追いかけようとした家人の背中を、尻尾で打つ。太い尾で弾き飛ばされた家人は、土に激しく身を打ち付けた。
狛は、天に響くように鳴いた。
白銀の身体から、血が噴出す。
『おら、糞鼠。立てよ。息の根止めてやる』
そうして、笑った。
『俺は腐っても狛犬だ。 ――あれは、てめぇみたいな奴が消していい灯じゃねぇ』
草履は脱ぎ捨てた。
石を踏んでも、草で足が痛んでも、露草は無我夢中で京の街を駆け抜ける。
――土蜘蛛。
あの時の彼の顔が浮かぶ。名乗っているとは思えない程、忌々しい名を口にしたような表情だった。
四年前の辻斬りが、彼の仕業じゃなかったなんて事を云うほど、露草は向こう見ずではない。でも、露草は思う。今回の辻斬りは、絶対に彼の仕業ではない。
どうかお願い。
露草は神に祈るようにひた走った。
京の道は狭くて、入り組んでいる。どの道を走れば土蜘蛛に会えるのかが分からない。だからこそ露草は祈った。
「会いたい、あいたい、会いたい…!」
あの人と恋がしたいなんて、ワガママは云いません。
あの人と繋がりたいなんて、ワガママは云いません。
だからどうか、だからどうか。
あの人の幸せを願わせて下さい。
「神様…っ」
石に足を取られて躓きながらも、露草は角を曲がった。その瞳に、探し続けていた男の姿が映る。伸ばしっぱなしを括った髪の毛。よれて汚れた袴。
こんな事態だというのに、その後ろ姿を見て、胸が苦しく痛んだ。
土蜘蛛は刀を手に立っている。対しているのは薬師丸だ。
双方とも傷を負っていた。
が、見るからに土蜘蛛の方が深手で、身体の軸が傾いている。立っているのもやっとなのが見て取れた。それでも彼は、刀を降ろす事をしない。
対峙する薬師丸の手にあるは、鎌。彼の身長より大きな得物が、土蜘蛛に向けてある。
ふと、暗闇の中に蠢く姿をもう一つ見つけた。
土蜘蛛の背後、家屋の影だ。
見れば、忠に従っている側女の姿であった。顔は鼠。家人と同じである。
土蜘蛛と薬師丸には、死角になっていて見えていないらしい女の姿に、露草の心臓が、早鐘のように鳴り響いた。
女が、土蜘蛛ににじり寄っていく。
背後から彼を襲うつもりだ。あの人を殺すつもりだ。
駄目、と露草は唇を噛み締めた。そんな事許さない、絶対に。露草の唯一の願いを、幸せを、奪わせたりしない。
張り裂けそうな緊張で、声が出ない。遠い距離は手も届かない。
その代わり、露草は力強い一歩を踏み出した。
気配を感じ、薬師丸が驚いた声を上げたのが遠く聞こえた。何と云ったかは分からなかったが、土蜘蛛が首を巡らせる。その気だるげな瞳が、側女の姿を捉えて、露草を見て、大きく見開かれた。
側女が、土蜘蛛に牙を剥く。
「――土蜘蛛様ッ」
恐怖に掠れた声で、叫んだ。




