第七話「期待」
――コールウォー砦、リコーの仮設幕舎。
薄暗い室内で、リコー・タディーカは机に広げられた砦の図面を覗き込んでいた。黒革の手袋を嵌めた指先が、図面の一箇所を正確にトントンと叩いている。
「ムロヤ。明日の朝一番で、我が部隊の兵たちに、この『東門』周辺の補強工事を開始させなさい」
傍らに立つムロヤは、眉をひそめて図面を見下ろした。
「東門だと? あそこは砦の中でも最も強固な防衛線が敷かれているはずだ。それに、砦の指揮官殿の許可もなく勝手に工事を始めれば、今度こそ命令違反で投獄されるぞ」
「ええ、ええ。その通りです。ですから、我が部隊には『本国より持ち込んだ最新の魔導資材による、独自の防壁構築』を命じます。もちろん、砦の指揮官殿には事後報告、あるいは現場での強行で構いません」
リコーは背筋をぴたりと伸ばし、大仰な身振りで両腕を広げた。
「そして、あの『荷物』も、東門の地下へ移送します」
「なんだと?」
ムロヤの声が低く沈んだ。
「裏切り者がいると分かっている状況で、そんな目立つ真似を……。不自然に命令を無視し、不自然に特定の門の防衛に執着する。そんな情報が王国に渡れば、あちらは『東門に何かがある』と確信して、総力を挙げてそこを潰しに…」
ムロヤは何かに気付く。
リコーは薄い唇の両端を、ゆっくりと吊り上げた。
「おや、ご名答。さすがは我が副官殿だ」
リコーは両手を胸の前で合わせ、部屋の隅にある暗がりへ視線を投げた。
「ネズミというものは、暗くて狭い場所を好む臆病な生き物です。しかし、目の前に極上のチーズが置かれていれば、どれほど警戒していても、ヒゲを震わせて這い出してくる。我が部隊の目に余る専横と、東門への異常な執着。これらすべてが、ネズミのペンを走らせるための、極めて芳醇なチーズの香りとなるのです」
ムロヤは息を呑んだ。
リコーは最初から、砦の防衛など考えていない。指揮系統を乱し、自身の部隊を孤立させ、わざと目立つ動きをすることで、裏切り者を利用して、王国軍そのものを自分の用意した舞台へ引き摺り込もうとしているのだ。
「王国には、どうやら私の『ファン』がいるようですしね。その私が見せた執着。王国参謀本部の地図には、見事な『東門の脅威』が描き出されることでしょう。そして、彼らはその脅威を排除するために、必ずや行動する。しないという選択が結局、とれない」
リコーは喉の奥で、くすくすと湿った音を立てた。
「『ファン』の期待には応えませんと。我が帝国の勝利という美しい絵画を完成させるために、王国軍自らに、絵の具となってこちらへ押し寄せていただくことにしましょう」
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暗い執務室で、リークライト参謀長は手のひらの上の小さな羊皮紙を焼き捨てた。指先をかすめる小さな炎が、彼の深く刻まれた皺を赤く浮き彫りにする。
コールウォー砦に潜む同胞からの通信魔法、極秘点滅報。
内容は明確であった。帝国補給部隊の指揮官リコー・タディーカが、軍規を無視して東門の防衛補強を強行し、本国から持ち込んだ「異常な兵器」をその地下へ移送した、と。
「……罠か」
リークライトは灰になった羊皮紙を灰皿へ払い落とし、両手の指を組んだ。
あの男爵家の三男坊が相手なのだ。自分の老いた脳髄が、あのアクの強い若者の思考の上をいけるとは思っていない。あの露骨なまでの動き。裏切り者の存在を察知した上で、あえて情報を流させているのではないかという疑念は拭えない。
だが、と老将は卓上の地図へ視線を落とした。
これを策略ごと食い破ることさえできれば、砦の攻略は、戦争の天秤は一気に王国側へと傾く。まさに甘美な毒薬。指を指し伸ばせば届く位置に置かれた、決定打という名の誘惑。
「策に溺れたな、リコー」
リークライトの視線は、地図上の街道を滑り、コールウォー砦へと一直線に向かう一筋の線へと注がれた。
スオス・ハイムと、彼に宛てがった首輪たる少女。二人の行軍速度は、リークライトの緻密な計算と寸分の狂いもなく一致している。
『東門から、強襲せよ』
駒は、完璧な刻限に砦へと到達する。
リークライトは胸の奥に差し込むような苦みを感じながら、瞼を閉じた。
あの大地を揺るがす無慈悲な破壊。理屈も、戦略も、世代を越えて積み上げられた軍事の体系も、ただ等しく踏みにじっていく純粋な、忌々しい暴力。
どれほど繊細に糸を張り巡らせようと、どれほど陰湿な計算を重ねようと、あの力の前にはすべてが無に帰す。
「……リコー・タディーカ」
リークライトは静かに呟いた。
「貴様はまだ知らないのだ。あの理不尽なまでの暴力を。策などというものが、あの男の前でいかに脆く、無意味であるかということを」
冷たい三日月の夜空の下、老将は確信とともに、地図上の白銀の駒をコールウォー砦の東門へと推し進めた。
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夜の帳が下り、冷えた風が平原の薄ススキを揺らす。小さな焚き火の明かりが、二人の影を泥の上に長く、歪に引き伸ばしていた。
カーラーは膝を抱え込み、火の粉が小さく爆ぜる音にすら、全身の筋肉を硬直させていた。彼女の呼吸は浅く、細い喉からは微かな喘ぎのような音が漏れ続けている。
彼女の身体を絶え間なく苛み、押し潰し続けているもの。それは、終わりなき恐怖であった。
始まりは、幼い頃にその指先に宿った奇跡——あらゆる傷を塞ぎ、命を救う治癒魔法の才能だった。
それゆえに引き起こされた、血と肉の匂いに満ちた陰惨な事件。生きながらえようとする者と、繋ぎ止めようとする者の浅ましい欲望の渦に巻き込まれ、彼女の人生は次から次へと降りかかる不運によって塗りつぶされていた。
「疲れた」とすべてを諦め、投げ出してしまう勇気すら、彼女の精神には残されていない。考えないようにしようとすればするほど、思考は空転し、生き延びるための本能が敏感に周囲の恐怖を探し出してしまう。
少し離れた場所で、無造作に干し肉を噛みちぎっている少年——スオス。
目の前にいる「コレ」は、恐怖の質としては、まだ分かりやすいものだった。
あまりにも隔絶した暴力。触れれば死ぬと分かっている刃。ただその強大な力に息を殺して怯え、立ち入らないようにしていればいい。対処の仕方が明確である分、まだ耐えることができた。
そして、伝令を通じて定期的に情報の提供を求めてくる、あの参謀本部の老人——リークライト。
彼に対する対処もまた、明白だった。ただ指示に従い、見聞きしたものをありのままに、正直に差し出せばいい。嘘をつかず、従順な道具であり続ける限り、あの老獪な爪が自分の喉元を割くことはない。
それらはすべて、対処の手順が存在する恐怖であった。
だが、カーラーの手足を冷たく痺れさせているのは、それらではない。
彼女が真に恐怖していたのは、この世に確実に存在する「対処できない恐怖」の影だった。
どれほど身を小さく縮めようと、どれほど正直に怯えようと、その存在すら認識できぬまま、あらゆる抗いも逃避も無意味に変えて全てを踏みにじる、理解の及ばぬ何か。
揺らめく炎の向こう、暗鬱な夜の深淵から、自分たちを静かに見つめているかもしれない未知の悪意。
怯えることすら許されず、理由も分からぬまま引き裂かれる瞬間が訪れるのではないかという予感。
その「対処の術を持たない恐怖」の存在こそが、彼女にとってたまらなく、絶望的に恐ろしかった。
老人より、通信魔法が入った。
「あ、あの…」
「ん?どうしたのカーラーちゃん、干し肉いる?」
「参謀本部より、通達、です。『コールウォー砦を、東門から強襲せよ』とのことです…」
読んでいただき、感謝します。




