第六話「おしゃべり」
コールウォー砦の執務室に、卓を激しく叩く音が響き渡った。
「タディーカ中級魔導士! 貴官は耳まで腐っているのか!」
砦の最高指揮官は、額に青筋を浮き立たせ、目の前の男を睨みつけた。
彼が下したのは、補給部隊の「即座吸収」の命である。過酷な防衛戦で疲弊しきった砦の既存戦力を補強するため、リコーが本国から引き連れてきた部隊をそのまま自分の指揮下に組み込み、即座に再配置する——軍事上の手続きとしては、きわめて正当かつ迅速な指示であった。
しかし、リコーは優雅に首を横に振っただけだった。補給物資の搬入作業のみを淡々と指示し、連れてきた兵や装備の編入手続きには一切手を付けようとしない。不遜極まる無視であった。
「我が部隊の兵は、長旅の過労と道中の予期せぬ交戦により、酷く疲弊しております。いま前線に放り込めば、使い物になりませんよ」
「屁理屈を抜かすな! 命令に従え!」
指揮官の怒号を、リコーは風鈴の音でも聞くかのようにさらりと受け流し、ただ恭しく一礼して部屋を後にした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
その夜。あてがわれた仮設の幕舎で、ムロヤは腕を組み、魔導ランプの揺れる光をじっと見つめていた。
(おかしい……)
昼間のリコーの態度は、いくらなんでもあまりにも無意味で不自然だった。現場の最高指揮官の指示をあそこまで露骨に突っぱねれば、軍規違反で軍法会議にかけられても文句は言えない。あの合理的で計算高いリコーが、単なる嫌がらせやプライドでこんな愚行に走るはずがないのだ。
「……リコー。一体何を考えている」
物陰から静かに歩み寄ってきたリコーに、ムロヤは低い声で問いかけた。
リコーは返奏するように、薄い唇の両端を吊り上げた。彼は手袋をはめた人差し指を立てて自身の口元に当てると、周囲に誰もいないことを確かめるように、ゆったりと部屋の影を眺めた。
そして、ムロヤの耳元にだけ聞こえるほどの極小の囁き声を落とした。
「……裏切り者がいますからね」
張りのあるいつもの声とは一転した、冷たく湿り気のある声だった。
「この砦のあれこれ、そして我々のそれこれ。そのすべてを、王国側に流している、素敵な『おしゃべり好き』がね。……さて、ムロヤ。そのような状況で、手勢を愚直にあの指揮官に手渡す、必要があるのでしょうか?」
リコーは三日月のように目を細め、暗闇の中でくすくすと抑えきれない笑いを漏らした。
ムロヤは、リコーから目が離せない。リコーの目を見ながら、思考を回転させる。
「……そうか」
ムロヤは息を呑み、額から冷や汗が伝い落ちるのを感じた。
脳裏に浮かんだのは、リコーが「無駄な迂回」の誹りを受けてでも寄り道した、あの森や丘だ。
あれは奇妙だった。伏兵、残存兵がいるならここ、と当たりをつけていた。つい最近まであのあたりは戦場だった。混乱の中、それでも密かに集結し、攻勢をしかけ、一矢報いる。ムロヤが知る王国兵とはそういうものだった。目の前を帝国旗を掲げた補給部隊が通れば、必ず攻撃してくるはず。それが、全てもぬけの殻。我々が来る前に、組織的に迅速に撤収したことになるが。
「重要なのは、もし伏兵が配置してあって、もし我々が真っすぐ砦に向かっていたら、補給部隊はどうなっていたかわからなかった、ということです。あの森や丘に、王国兵と思しき連中が、少なくない人数潜んでいた証拠は見つけたでしょう?普通、我々にぶつけませんか?撤収、します?あの猪武者どもが」
「…王国本部からの、命令」
「私、こうみえて無名でしてねぇ…、絶対襲ってくると思って、いろいろ準備してたのに、無駄になってしまいました」
王国は、リコーの名前ばかりか、この男の実力を知り、戦力を無駄に消費しないよう撤収させた…?
一般的な帝国軍人よりもリコーという男に詳しいことになる。
リコーの本質を知るものは、帝国にも少ない。ムロヤを除けば、あとは直属の上司と…
「帝国総司令部に……内通者がいるっていうのか……!?」
ムロヤの声が震えた。帝国の内部、それもかなりの中枢に、王国の狗が潜んでいることになる。
「ムロヤ」
リコーは優雅に肩をすくめ、手袋を嵌め直しながら、心底可笑しそうに目を細めた。
「それは流石に考えすぎです。総司令部は優秀ですし。それにしても『お喋り好き』には困ったものですよねぇ」
低く、湿り気を帯びた声が暗闇に溶ける。リコーは腹の底から湧き上がる愉悦を抑えきれない様子で、口元を片手で覆いながら、肩を細かく揺らした。
「くす……くすくす……」
自分の情報が相手に伝わっていることすら、愉しくて仕方がないというような、三日月の笑み。
砦の外では、夜風が暗雲を吹き飛ばし、刃のように研ぎ澄まされた三日月がコールウォー砦を冷たく照らし出していた。
乾いた土を踏みしめる音が、等間隔で単調に響き続けている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
スオス・ハイムは、聖剣の柄を指先で軽やかに弾きながら、どこまでも続く平原の街道を歩いていた。その足取りは散歩にでも出かけるように軽く、口元には絶えず朗らかな笑みが張り付いている。
彼の背後、ちょうど十歩の距離。
そこには、白銀の治癒士衣に身を包んだカーラーが、俯き加減で歩いていた。スオスが立ち止まれば彼女も立ち止まり、歩き出せばまた歩き出す。決してその十歩の距離を縮めようとはしない。
「それでさあ、師匠ったら、俺の剣術を型にはめようとしてさ。心がどうだーって。馬鹿みたいだよねえ」
スオスは振り返ることなく、空に向かって快活に語りかける。
「ひっ……あ、は……はい……」
カーラーの喉からは、言葉の形を成さない掠れた呼気だけが漏れた。
「カーラーちゃんって、本当に聞き上手だよね。お爺ちゃんたちがわざわざ君をくっつけてきた理由、分かった気がするよー」
スオスが歩みを止めて振り返ると、カーラーはビクンと肩を跳ね上げ、両手で自身の身を抱きしめるように硬直した。スオスはそんな彼女の様子を意にも介さず、無垢な瞳を細める。
その時、街道の脇にある背の高い草むらが大きく揺れた。
獣の腐臭が風に乗って鼻を突く。現れたのは、巨大な四つん這いの魔獣だった。涎を垂らし、血走った眼球をスオスとカーラーに向けている。
カーラーが短い悲鳴を上げ、しかし兵士として杖を構えた。
スオスは、聖剣を抜くことすらしなかった。ただ、めんどくさそうに首を傾げる。
「あー、ちょっと待っててね、カーラーちゃん。君、今、お話の途中だから、またね」
スオスは右手を軽く振り払った。
その無造作な指先から放たれた、極度に圧縮された不可視の魔力の塊が、空気を切り裂く。魔獣が咆哮を上げる間もなく、その巨体は頭部から尾の先まで、一直線に、そして完全に粉砕された。
肉塊と血の雨が降り注ぐ。しかし、スオスの周囲には薄い魔力の膜が張り巡らされており、一滴の汚泥すら彼の服を汚すことはなかった。
「あ、思ったより飛び散った。ごめん、汚れなかった? …でも、僕の怪我治しの出番なんて、この先一生来ないと思うんだよねえ」
スオスは快活な声で笑った。
圧倒的な暴力の顕現。彼個人の持つ力の前では、他の一切の暴力が無意味になる。やがて歩き出したスオスの後ろを、カーラーは十歩離れてついてくる。巨大な組織が自分に課した、役割を果たさんとして。
スオスは聖剣をポンと叩き、前を向いて歩き続ける。
読んでいただき、感謝します。




