第九話「戒訓③」
更新が滞っております。
必ず最後まで書くので、どうか長い目でお付き合いのほど。
「ひどい……」
カーラーは手元に横たわるリコーの凄惨な状態を目にして、思わず声をもらした。
息も絶え絶えの命をなんとか繋ぎとめようと、必死に胸元へ両手をかざし、渾身の活性魔導を注ぎ込む。しかし、治療に全神経を集中させねばならないと分かっていながら、彼女の意識は否応なしに正面の死闘へと引き寄せられていた。
マティスと名乗る男が繰り出す、理不尽で不可視の猛攻。
スオスはそれを完全に防ぎ切ることができず、防戦一方に追い込まれていた。持ち前の異常な身体能力と直感によって奇跡的に致命傷を免れてはいるものの、全身に増え続ける傷を数えるまでもなく、敗北がもはや時間の問題であることは誰の目にも明らかであった。
一方で、マティスは密かな苛立ちを募らせていた。
(……なんだ、こいつは)
自分はすでに「代行者の手」による不可視の物理打撃と、距離も障害物も一切を無視して時空を操る防御不能の奇跡、「代行者の目」まで解放しているのだ。
だというのに。目の前のこの男は、なぜ未だに立ち続けている。
「はあ……! はあ……! ……ッ!」
ガガッ――!
マティスの認識外で、「代行者の手」が紡ぐ自動防御殻が突如として展開された。
満身創痍のはずの男が地を蹴り、不意に怒涛の攻勢に転じたのだ。スオスの振るう剣の刃先が、マティスの目と鼻の先で、透明な壁とギチギチと嫌な音を立ててせめぎ合っている。
「……!!」
(こいつ……! 人間が出せる動きじゃない……っ!)
主目的である異端の魔導士――その同行者の、あまりにも高すぎる戦闘能力に、マティスは思わず足元を狂わせ、一歩後ずさった。
そして、そんな無意識の動揺を見せた己を激しく恥じるように、マティスは残された右腕を力任せに振り抜く。「代行者の手」が生成した「不可視の質量」を、至近距離からスオスの正面へと叩きつけた。
「ぐうッ!」
苦悶のうめき声をあげ、スオスの身体が激しく後方へ吹き飛ばされる。乾いた土煙を上げて転がる男を見下ろし、マティスは鋭い声を張り上げた。
「無駄な事を何度繰り返すつもりだ! 貴様の攻撃など全て無意味だということが、まだ分からんのか?!」
「は」
血を吐き出しながらも、尚も抜き身の刃のような殺意をまっすぐに向けてくるこの男。
スオスはニヤリと口元を歪めると、後ろへ視線を送ることなく言った。
「……いい線いってましたよ。ムロヤさん」
「……?」
マティスはいぶかしげに眉をひそめた。
ムロヤ? もう一人、大した魔力も感じられない男が確かそこにいたはずだが……。
ただの雑魚だと切り捨て、完全に意識の外に追いやっていたもう一人の男を視線で探そうとした、その時。
マティスは、自身の左頬がじんわりと温かいものに濡れていることに気がついた。
「?」
マティスは右手で己の頬にそっと触れた。
引き揚げた指先へ視線を落とすと、そこは赤黒い血でべっとりと濡れていた。
スオスの後方から、低くも確かな声が届く。
「……次はもっと早くお願いしますよ、スオス殿」
不敵な笑みを漏らしながら、右手に持った魔拳銃をカチリと鳴らすムロヤの姿があった。左手には自作の解析端末が握られている。
ムロヤは激怒していた。
リコーにはこれまでさんざんな目に遭わされてきた。奴は身勝手で、人を巻き込み、最悪の状況へと嘲笑いながら飛び込んでいく。――だが、同時に間違いなく自分を生かし、導いてくれた憎むべき恩人であり、友人なのだ。その友をあのように無残に叩き潰された怒りは、ムロヤの思考の限界をとうに突き破っていた。
沸点を超えた激怒の果て、ムロヤの頭脳は静寂すら覚えるほどに冴え切っていた。彼は冷徹な、あるいは獰猛な眼差しでマティスを見据え、自作の解析端末を操作しながら吐き捨てるように言った。
「ひとまず、突破の糸口は見えた、かな」
血みどろのスオスと、眼光を鋭く光らせるムロヤ。
二人の男が、まるで仕留める獲物を前にした獰猛な肉食獣の笑みを浮かべて、マティスを真っ直ぐに見据えていた。
「スオス殿を弾き飛ばした、まさにその瞬間は、魔拳銃の攻撃に対して防御殻は発動しなかった……やはり、防御と攻撃を同時に発動できない『何かしらの制約』がある」
「みたいだね。……と言っても、俺も不死身って訳じゃないからね。もうそろそろマジでヤバい。次はやつの脳天をお願いするよ」
スオスは肩を荒く上下させながらも、口の端をニヤリと引き上げ、血で濡れた剣先をマティスへと突きつけた。
すると、さらに背後から楽し気な声が聞こえた。
「ふふ、あまりにも退屈で、少し寝てしまいましたか。……私も混ぜてくださいよ」
土煙の中から、のそりと人影が立ち上がった。
血まみれの衣服をまとったリコーが、何事もなかったかのように自身の首をゴキリと鳴らしながら、怪しげな笑みを浮かべて歩み出てくる。折れ曲がっていたはずの四肢は正しく繋がり、潰れていた胸腔も、カーラーの必死の治癒魔導によって完全にその機能を繋ぎ止めていたのだ。
「リコー!」
ムロヤが安堵と呆れを混ぜ合わせた大声で叫ぶ。
「なっ……!?」
今度こそ、マティスは驚愕にそのただひとつ残された右目を大きく見開いた。
(ありえない……! 間違いなく重症だった!! 致命傷になり得る一撃を受けておきながら、なぜ回復している……!?)
マティスの頬を冷たい汗がひとすじ伝い落ちた。刺客としての任務の遂行と、異常な事象への対処がせめぎ合った。そして、彼は決断した。
マティスのその陰影の奥で、再び左目が妖しく光を放った。
男の目の前に既視感のある複雑な魔法陣が浮かび上がったかと思うと、周囲に突風が吹き荒れる。
(逃がすか……っ!)
直感的にマティスの逃走を察したスオスが、地面を激しく蹴りつけ一気に飛び込んだ。渾身の力で振り下ろした刃が空を切り裂く。
しかし、またしても透明な防御殻が立ち塞がり、スオスの剣は寸前で激しく弾き返された。チリチリと嫌な干渉音が静寂の始まりを告げるように鳴り響く。
防御殻の向こう側で、マティスは一つ残された右目を細め、目の前のスオスの凄惨な顔、そして後方に控える、ある人物へ視線を送った。フードの影で、ほんの一瞬だけ、苦々しげに眉をしかめたように見えた。
次の瞬間、音もなくマティスの姿が街道から掻き消えた。
あとに残されたのは、重苦しい静寂だけだった。
先ほどまでの死闘によって、街道の石畳や土はひどく荒れ果て、抉られた痕跡があちこちに生々しく散らばっている。
「スオスさん……!」
カーラーが小走りで駆け寄り、血に染まったスオスの背中に向かって傷を気遣うように手を伸ばした。
スオスの胸中には、先の見通せない深い焦燥と、あの不可解な襲撃者に対する激しい憤怒が渦巻いていた。……しかし、その不快な怒りの底には、あの得体の知れない脅威が去ったということに対する、確かな『安堵』が混ざり込んでいた。
最強を自負する己が、死線を前にして安堵などという弱気な感情を抱いたこと。
それをどうしても認めたくないスオスは、荒い息を吐き出しながら、己自身に対して不機嫌そうに小さく舌打ちをした。
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マティスは、静謐に満ちた神殿内部の空間へ転移していた。
先ほどまでの死闘や、自身の頬を削った血の痕跡など微塵も感じさせないほど、その表情は冷たく凪いでいる。
「マティス秘跡管理官」
転移陣の傍らで微動だにせず待命していた部下――視影官の男が、深く頭を下げ、影の中から声を潜めるように呼びかけた。
マティスは残された右手を静かに衣の内に滑り込ませ、一切の感情を消し去った平坦な響きで応じる。
「これより猊下へ密奏を行う。表を払い、速やかに御前へ通すよう手配せよ」
一瞬だけ言葉を切り、フードの隙間から冷徹な眼光を放った。
「あり得ぬ怪異が起きた」




