第六話「井戸」
深夜。
村人たちはすっかり寝静まり、周囲には動くものの気配すらない、冷え切った暗い世界が広がっていた。あんなにも賑やかだった、先ほどまでの宴の喧騒が嘘のようだった。同じ場所であるはずなのに、まるで別の底知れぬ場所に迷い込んだかのような、肌を刺すような不気味さが村全体を包み込んでいる。
その闇の中、村の中央にぽつんと佇む石積みの『井戸』の前に、スオスは一人で立っていた。
彼は低く身を屈め、漆黒の水面が覗く井戸の底へと鋭い視線を這わせながら、わずかに眉間を寄せた。
「……普通の、井戸。だよね……」
誰にともなく吐き捨てた、かすれた呟き。魔力の気配を探ろうと、スオスは右手の指先で石の縁をトントンと軽く叩く。しかし、表面上はどこの村にもあるような、ただ古びた普通の井戸にしか見えなかった。
「いやいや。これは普通ではないですよ」
背後から、不意に軽やかな声が降ってきた。
「っ……!」
最強の戦士としてのプライドと生存本能が、スオスの全身の産毛を逆立たせる。自分に近づく気配すら察知できなかったという致命的な不覚に、スオスは奥歯をギリッと噛み締めた。
彼は瞬時に膝を落として重心を低くし、腰の剣を凄まじい手際で引き抜きながら、その動きを利用して弾かれたように真後ろへと反転した。引き絞られた筋肉が月明かりを反射し、凍てつくような殺意の刃が闇の中へと突き出される。
刃の先端が捉えたその視線の先。
そこには、怪しげに笑みを浮かべるリコーと、その隣で青い顔をして肩を震わせるムロヤ、怯えたようなカーラーの姿があった。
「……ッ」
引き絞った気脈の底で、3人の存在を遅れて認めたスオスは、自らが背後を取られていたという事実よりも、そこに気付けなかったことそのものに激しい焦りを覚えていた。
(カーラーちゃんの気配すら拾えないなんて……いや? おかしい)
スオスは眉間を深く寄せ、抜いた剣先を微かに震わせる。
「おかしい」
「そう、おかしい。あなたほどの才気があって、これほど感知が鈍るなんて『異常』ですよ。ほら、目の前にいる私たちの気配だって、ひどく希薄でしょう?」
リコーは不敵な笑みを浮かべながら、ひらひらと片手を軽く振ってみせた。
言われて目を凝らすと、確かに目の前にいるはずのリコーたちの存在感が、まるで霧の向こうにいるかのように曖昧で、輪郭がぼやけて感じられる。スオスは自身の右掌を強く握りしめ、その異様な感覚を確かめるように首をこくりと傾げた。
「……この井戸が、原因だって言いたいのか」
「それしかあり得ないでしょうねえ」
リコーはすたすたと足音を響かせ、スオスを横目に井戸の縁へと歩み寄った。
彼はかがみこみ、皮手袋越しの指先で石積みの表面をトントンと軽く叩き、さらに内部の暗がりを覗き込む。
「……ふむ。これは、2……いや、3種類か。ほうほう、なるほど……」
「一人で勝手に納得してないで、ちゃんと解説してくれよリコー……」
ムロヤは、まだ恐怖に顔を引き攣らせながらも、諦めたように深い溜息を吐いた。いかにも彼らしい、どこか器用な落差だった。
「結論から言えば、この井戸は魔導具です。しかも、複合しています」
リコーは冷めきった闇の中、平然とした笑みを浮かべたままで、指先で石の縁をトントンと軽く叩いた。
「な……ッ!?」
リコーの台詞を聞いた瞬間、ムロヤの顔から恐怖が消えた。代わりに、弾かれたように前のめりになり、絶句した。カーラーとスオスは、それの意味する恐ろしさがまだ測りきれず、ただ怪訝そうに眉をひそめて二人のやり取りを見つめている。
「こ、これが複合魔導具だって……!? ちょ、ちょっと俺にも見せてくれ!」
ムロヤはリコーを押しのけ、震える手を伸ばして冷たい石積みにべっとりと触れた。彼は指先から伝わる微弱な魔力の波長を拾おうと、ぐっと頭を低く沈め、険しく目を細める。
「……『妨害』? こいつは、この国を取り巻く通信妨害と同じ原理……なのか? くそっ、なんで魔導具が禁忌のこの国で、こんな見たこともない魔導具の鑑定のまねごとなんかしなきゃならないんだ……っ!」
ムロヤは奥歯をギリッと噛み締め、悔しさに顔を歪めた。
帝国の魔導士になるために、彼は人並み以上の膨大な学問を修めてきた。結果として魔力不足ゆえに魔導士の資格には破れたものの、「知識の総量なら現役の魔導士よりも上だ」という自負が彼の誇りだった。それだけに、目の前にある未知の魔導具を前にして、己の知識だけではその全容を把握しきれないということは、彼にとって耐え難い屈辱だった。
「ふふ、そんなに顔をしかめなくともいいでしょう、ムロヤ。これが『妨害』の魔導具である、と一目で見抜くこと自体、並大抵の才ではできませんよ。……そして、わたしの見立てでは、ここには『変化』……いや、性質からすると『錬成』の機能がある。それから……ここからが実に興味深い。絶対にあり得ないはずのものが仕組まれています。これは『転送』です」
「て……転送……?」
カーラーは恐怖に引きつった表情を浮かべ、両手で自身の両肩を固く抱きしめるように小さく身を縮こまらせた。
「そう。あなたがたと初めて出会った時、カーラー殿。かつて、あなたが私とムロヤから逃げるために使った、アレです」
「……ッ!? だ、だってアレは……!」
カーラーは息を呑み、わずかに後ろへと両足を退いた。その青褪めた顔には、隠しきれない動揺が色濃く浮かんでいる。
「そう。アーティファクト。現代の技術では再現不可能とされている――いや、『いた』はずのものです。本来なら古代遺跡からのみ発掘される、究極の移動手段ですよ」
「そ、そんな高度な魔導具の、再現!?……しかも、それを複合だと……ッ!」
ムロヤは震える両手で自身の頭を抱え込むようにして、その場に深くうずくまった。その驚愕のつぶやきに対し、スオスは怪訝そうに片眉を吊り上げ、腕を組んだまま首を傾げる。
「さっきから、『複合』ってのにやけに驚いているけど、そんなにすごいことなの?」
スオスの問いに、ムロヤはぐっと顔を上げ、青褪めた表情のまま勢いよく立ち上がった。彼は荒い息を整えるように両拳を強く握りしめ、スオスへとまっすぐに向き直る。
「……魔導具の複合ってのは、いまだ『理論』の段階なのさ。普通の魔導具は『一種一機能』が大原則だろ? それは魔力結晶の性質が原因なんだ。簡単にいうと、魔力結晶に刻まれた魔導の『式』は、異なるもの同士だと互いに干渉し合うんだよ。しかも、その反応というか、組み合わせの数は膨大という言葉では足りないくらいで、少しでも狂えば何が起こるか誰にもわからない」
ムロヤは悔しそうに歯噛みし、片手で自分のこめかみを強くグリグリと押さえた。
「リコーと一緒にいて、スオス殿もカーラー殿もコイツの滅茶苦茶な魔力結晶の使い方を目の当たりにしたよな。だから、さも簡単そうに見えるかもしれないが……とんでもないんだよ! いまだに信じられないことなのさ。複数の魔力結晶の連鎖反応を、安定した高い再現性で同時に制御するなんて……!リコーの技術だって、はっきり言えば『頭がおかしい』レベルなんだッ!それなのに……」
彼は両腕をわなわなと震わせ、恐怖に引きつった目を大きく見開いた。
「ともかく、実用化はおろか、最先端の研究室レベルでさえ、魔導具の『複合』なんて、できるわけがないのさ。……できるはず、ないんだ……っ!」
ムロヤの喉から絞り出されたその絶望の全容が、スオスとカーラーには完全には理解できない。
だが、とんでもない技術が、何の変哲もないこんな鄙びた村の片隅に転がっている。それが魔導具であり、他でもない「魔導具を禁忌とするこの聖国」に存在している。
二人に理解できる事実――それらを頭の中で繋ぎ合わせるだけでも、ムロヤが覚えた戦慄と恐怖の一端を感じ取るには、十分すぎるほどであった。
スオスは険しく眉間を寄せ、自身の腰の剣へと無意識に右手を添え、カーラーを見る。カーラーは青ざめた顔で両手を胸の前で固く組み、恐怖に震える小さな体をすくませる。スオスの胸の奥で、名前のない『もやもや』がじわりと苦く波立つ。この少女を、この得体の知れない異常から守らねば。正体不明の衝動が、彼に戦士としての警戒を強めさせていた。
本編にさり気なく入れたかったけど出来なかったしもう出なさそうな設定なのでここに書くしかない蛇足)魔力結晶は、式と呼ばれるプログラム(「○○したら、××する」というもの)を刻むと、その式に「沿って」魔力を消費します。しかし、その式は、他の魔力結晶によって簡単に、意図せず書き換わります。この性質のせいで、通常の魔道具は魔力結晶を魔力を遮蔽できる素材で覆っており、「○○したら」の部分はもっぱら物理的な条件にしています(そうしないと他の魔道具が干渉して暴走や破損の危険があるから)。一度発動さえすれば、発動する現象は基本的に不可逆なので、リコーは、無限ループ(実現不可能な条件の設定など)を仕込んでおき、それが「崩れる」ことで、「××する」式が発動とするといった変則的な使用でこれらを回避しています。(ようするに、聖国の、この井戸はやばいと言いたいだけです。)補足の補足)通信魔導具は、もとは二つの魔力結晶が互いに干渉しあう『共振』という、魔力波長の伝播とは全く別の現象を利用しており、これは現在の帝国の技術では『遮蔽』する術がありません。それも聖国は妨害しているので、やばいです。




