第五話「欠如」
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「猊下。お呼びでしょうか」
白都オクルス・イノケンティアの中枢。
聖国において最も荘厳な威容を誇る『城』の最深部で、低い声が石造りの床を這うように響いた。
豪奢な天蓋の下、二人の男が対峙している。
ひとりは、この長壁の内側を統べる絶対者――『聖教皇』。
顔の皺ひとつひとつにまで穏やかな慈愛を湛えた表情や、ゆったりとした佇まいは、まさに迷える子羊を導く宗教国家の元首そのものであった。
彼が身にまとう衣服は、白を基調とした一見すると簡素なデザインだ。だが、生地が放つ微細な光沢や、わずかにあしらわれた金糸の輝きには、一般庶民が一生を費やしても決して手の届かない、隠しきれない贅沢と金満の極みがあった。
その聖教皇の前に、片膝をついて拝跪するもう一人の男――先ほどの声の主である。
男の額から左頬にかけては、えぐれたような巨大な傷跡が斜めに大きく走っていた。左目という器官は完全に破壊されており、傷の塞がり具合からして相当な歳月が経過していることが窺える。
さらに、男の左腕は肩の付け根から先が丸ごと喪失し、衣服の袖だけが空虚に垂れ下がっていた。
しかし、残された右の瞳は、底知れぬ静かな決意を宿し、刃のように鋭い光を放っている。
男の服装もまた、教皇と同じく白を基調としたものであった。
だが、教皇のそれと決定的に違うのは、その服が過酷な戦闘や実務に耐えうる機能性のみを追求して作られており、装飾的・権力的な『価値』など微塵も持ち合わせていないという点だ。
聖教皇は静かに立ち上がると、片膝をつく男の正面へと歩み寄った。
ゆったりとした衣の裾を冷たい石床に引きずりながら正対すると、教皇は慈父のような柔らかな笑みを浮かべ、ふくよかな両手を腹の前で組み直す。
「おお……待っておりましたよ。私の忠実なる片腕」
教皇の皺枯れた声が、ゆるゆると甘く、静謐な空間に溶け出していった。
「マティス」
聖教皇のふくよかな唇からその名が零れ落ちても、跪いた男は深く伏せた頭を微塵も上げなかった。石造りの床に視線を固定したまま、彫像のように硬直している。ただ、床に添えられた右手の指先だけが、主の言葉を一言半句たりとも聞き漏らすまいとするかのように、僅かに力強く石畳を掴んでいた。
「民より、『声』が届きました」
教皇は痛ましくてたまらないといった風に、緩慢な仕草で自身の豊かな胸元に両手を当てた。
「なにやら、議会国との国境から『不法に入国』した者たちがいるようです。……むろん、彼らが悪であることを疑っているわけではありませんよ。何かやむを得ぬ事情があるのやもしれません。しかし……」
ふう、と教皇はわざとらしく悲痛なため息をつき、伏せられた男の背中へゆっくりと視線を落とす。
「我らが無辜の民が、ひどく不安がっています。……行って、確かめてきてはくれないでしょうか。ーー民の『安寧』を。」
慈愛に満ちた柔らかな声音。だが、男を見下ろす教皇の瞳の奥には、這い回る害虫をすり潰すような、極めて冷酷で昏い光が湛えられていた。
その言葉を受け、マティスと呼ばれた男は床から右手を離し、静かに自身の胸――心臓の上へと強く押し当てた。
顔の左半分を覆う醜い傷跡が、引き締まった頬の筋肉に引っ張られて微かに引き攣る。だが、ただひとつ残された右の瞳に宿る決意の炎は、いささかも揺らいではいなかった。
「猊下。いと尊き御方」
岩を擦り合わせるような、低く平坦な声だった。
男は胸に手を当てたまま、さらに深く、床に額が触れんばかりに頭を垂れる。
「あなたの御心に沿うことこそ、我が喜び。我が本懐。……すべて、御心のままに」
左腕という空洞の袖を力なく床に垂らし、ただひとつの右目と右手だけで絶対の忠誠を示すその姿は、ひとりの血の通った人間というよりも、主の囁きによってのみ起動する、研ぎ澄まされた冷たい『刃』そのものであった。
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リコーたち一行は、聖都への旅の途中で、街道沿いにポツンと佇む小さな村に立ち寄っていた。
いや、ただそこに滞在しているだけではない。彼らは今、村を挙げての異様なほどの歓待を受けていた。
「まあまあ、旅人さま方。聖都までご旅行ですか? それはそれは。しかし、今日はもう日も落ちます。今夜は是非、我が家でお休みください」
始まりは、沿道から柔らかな笑みを向けてきた村人の、そんな素朴な申し出だった。
そして気がつけば、今や村中の人間がこの一軒の家屋に集結したかのような、逃げ場のない大騒ぎになっていた。
無論、一行は一度は固辞したのだ。あの国境の壁から降り注いだ無数の不気味な視線の記憶が、彼らの足取りを重くさせ、警戒心を露わにさせていた。
だが、村人たちが次から次へと寄せてくる、あまりにも無垢で純粋な善意の波に、ムロヤとカーラーは耐えきれなかった。
特にカーラーは、その清廉ないで立ちから、どうやら村人たちに「活性治癒魔導の使い手(あるいは高位の聖職者)」と思い込まれてしまったらしい。次から次へと彼女の手を両手で包み込むように握りしめ、涙ぐんで拝み倒してくる歓迎ぶりたるや凄まじいものであった。カーラーは困惑に眉をハの字に曲げ、向けられる熱烈な信仰心に身をすくませるばかりで、その善意をきっぱりと撥ね付ける術を持ち合わせていなかった。
そして、スオスも諦めた。彼としては、どのみちどこで休憩しようとも、自身の隔絶した戦闘力があれば危険度は大して変わらないという、ある種の開き直りだった。深い溜息を吐き、腕を組んで黙り込むことを選んだ。
「いやあ! この村のみなさんは大変に親切で、わたくし、ひどく感動いたしました!」
宴が設けられた大広間。リコーは立ち上がって両手を大きく広げ、期待を裏切らない大仰な身振りで快活に笑い声をあげた。
ムロヤとカーラーは、周囲をびっしりと囲む村人たちの笑顔の圧力に完全に気圧され、流されるがまま、曖昧な愛想笑いを顔に貼り付けて食事を口に運んでいた。――その笑顔は、国境の壁で見せつけられた『視線』と、どこか酷似しているようにも思えた。
一方で、スオスだけは全く違った。
彼は卓の上に盛られた豪勢な料理を前にして、一切手を動かそうとせず、その表情を石のように強張らせていた。
周囲の和やかな空気に対するあまりの不自然さに、スオスの首筋がピクリと引き攣る。
彼は膝の上に置いた拳をギリッと握りしめ、ひどく嫌悪感に満ちた渋面を隣のリコーへと向けた。
「……おい。明らかにおかしいだろ、これ」
スオスは顎で、目の前の木皿に無造作に盛られた料理――分厚く巨大なロースト肉――をしゃくった。
「……なんでこんな寂れた村に、こんな『肉の塊』があるんだよ」
スオスが低く唸るように放ったその呟き。
それにリコーがニヤリと唇の端を吊り上げて応えるよりも一瞬早く。横からスッと首を伸ばしてきた村人の一人が、一切の翳りのない満面の笑みで答えた。
「信仰の賜物です」
村人は胸の前で両手を固く組み合わせ、恍惚とした光を宿した瞳を天井へと向けながら、一切の淀みなくそう言い放った。
「ハッ!」
スオスは鼻の奥で短く息を吐き捨てると、尊大な態度で腕を組んだ。
「神様が、空から肉を降らせて、君たちにくれたとでも言うのかい?」
見下すように顎をしゃくり、口の端を歪めて薄笑いを浮かべるスオス。久々に顔を出した、彼本来の傲慢な振る舞いであった。通常であれば、言われた側が萎縮して身をすくめるか、あるいは怒りで顔を真っ赤にして立ち上がるような、露骨な皮肉である。
しかし、目の前の村人は気にする素振りすら全く見せなかった。
不快感を滲ませるどころか、朗らかな笑顔を一層深め、嬉しそうにポンと両手を叩いたのである。
「ははは。空からとは、そりゃあ景気がいい。ひょっとしたら、他の村は空からもらっているのでしょうかね」
さも素晴らしいアイデアを聞いたと言わんばかりに、感心した様子で首を傾げる村人。
「は? ……え?」
スオスは組んでいた腕をだらりと解き、間の抜けた声を漏らした。
威嚇のために吊り上げていた眉尻が間抜けに下がり、困惑のあまりパチパチと何度も瞬きを繰り返す。鋭く研いだ悪意の刃を、純度百パーセントの真面目さで受け止められたことで、スオスは毒気を抜かれてしまった。
ポカンと口を開けるスオスに対し、村人は事も無げに親指で窓の外――村の広場がある方向を指し示した。
「うちの村は、恩寵は『井戸』からもらうんですよ。もちろん、家畜の肉がそのまま飛び出してくる、なんてことはありませんがね。ここらの畑や家畜の飼料はみーんな、あの『井戸』の恩恵で、賄えていますので」
誇らしげに胸を張る村人のその顔には、一点の曇りも、隠し事をするような疚しさも存在していなかった。
2026/10/10 誤字と言い回しを修正。




