第三話「壁の目」
議会国と聖国の国境。
そこには、行く手を阻む巨大な『壁』が聳え立っていた。
地平の彼方までどこまでも伸びる、長大な石の建造物。かつて聖国の指導者が、『啓示』に従い膨大な信者を動員して築かせたという、『神意の長壁』である。見上げる者の視界を威圧するその絶壁は、外の世界のあらゆる存在を拒絶せんとする聖国の排他的な性質そのものを、雄弁に物語っていた。
ムロヤは、議会国の鉄の技術とは全く異なる、人という生き物の持つ別の『力』――あるいは狂信の恐ろしさを見せつけられたような気持ちになった。しばらく茫然と壁を観察していると、一箇所だけ様相の異なる部分があることに気づく。
長壁の一部、ごっそりとくり抜かれたようになった部分に、重厚な大扉があった。
緻密な金銀の装飾、神話の場面を象った躍動的な彫刻。扉というよりは膨大な歴史を刻んだ芸術品というべきそれが、聖国への入口であった。
「こんにちは。聖国へようこそ」
一行が扉へ近づくと、門の脇から一人の男が歩み出てきた。
きれいに磨き上げられた白銀の簡素な鎧を身につけた門番である。その口元には柔らかい笑みが浮かび、目元には温和な皺が刻まれていた。
『人の良さそうな兵士』という、軍人らしからぬある種の矛盾。
異様に親切な雰囲気を纏った門番は、胸に静かに手を当てると、リコーたちに向けて朗らかに尋ねた。
「我が国は、あらゆる旅人を歓迎しております。どうぞ、そのままお通り下さい。……ああ、差し支えなければ、本日はどのような目的でいらっしゃったのか、お聞かせいただけますか?」
その問いに対し、リコーは一切の躊躇いもなく微笑んだ。
そしてポケットから一枚の折り畳まれた紙――聖国より下された『異端審問の裁判への召喚状』を取り出すと、さも観光の推薦状でも渡すような手軽さで門番へ差し出した。
もし。もしもムロヤやカーラーに、リコーのその行動を察知して制止する、コンマ数秒の猶予が与えられていたならば。
ふたりは間違いなく顔を凄惨に歪め、「やめ――!!?」と叫び声を上げながら、リコーの手からその忌々しい紙を全力で叩き落としていただろう。
驚愕し震える二人を尻目に、門番は差し出された紙を両手で丁寧に受け取ると、その内容へ静かに視線を落とした。上から下へと、一通り目を通す。
そして――門番は何の変化もなく、その忌まわしき紙片をリコーへと綺麗に折り直して返却した。
「わかりました。ご協力感謝いたします。……どうぞ、ご無事な旅となりますよう、心よりお祈りいたしておりますね」
優しく微笑み、深々と頭を下げる門番。
ムロヤも、カーラーも、そしてあのスオスでさえも、その場に棒立ちのまま息をのんだ。
ムロヤは顎が外れそうなほど口を開き、カーラーはあまりの恐怖に両手で己の肩を抱きしめるようにしてその場に凍りついている。
門番は、確実にあの紙を読んだのだ。
目の前の男たちが、自国の教義における最大の不敬を、宗教上の絶対的な禁忌を冒した『罪人』であることを理解した上で、この態度なのだ。
もちろん、自国の中枢が正式に呼び出している以上、門番の独断で入国を拒否することなどできないだろう。だが、異端者に対する不快感も、軽蔑の視線も、嫌味のひとかけらすら浮かべず、ただひたすら温和で親切な態度を貫いている。
何もない。怒りも、悪意も、人間的な拒絶すら、そこには存在しない。
言葉にできない気味悪さに、ムロヤとカーラーの背筋を冷たいものが駆け抜け、全身の皮膚が粟立つような身震いが二人を襲った。
だが、すべての元凶であるリコーといえば。
「ありがとうございます! そちらもお仕事、頑張ってくださいね!」
快活な声で爽やかに返事をしながら、すでに門を軽やかな足取りで通り抜けていた。
そして、気味の悪さに脚をすくませている三人に向かって、首を少し傾げながらパンパンと手を叩き、ほら、早く行きますよ、と楽しげに催促の手招きをしている有様だった。
恐る恐る門の敷居を跨ぐムロヤとカーラー。微かな緊張をその背中に滲ませるスオス。そして、とうに通り抜けて無邪気に手を叩くリコー。
四人全員が神意の長壁を抜け、ついに聖国の地へと続く街道にその一歩目を踏み出した。
――その瞬間であった。
最初に無意識の反応を示したのは、最強の生存本能を持つスオス。
次いで、気配の異変を察知したリコーとカーラー。
最後に、肌を這うような鈍い悪寒に肩をすくませたムロヤ。
それは、無数の『視線』だった。
見上げるような長壁の上から。壁中の暗い窓枠から。どんよりとした暗がりから。
様々な職の衣服を纏い、様々な年齢の男女が、一切の身動きもせず、ただ静かにこちらを見下ろしていた。
怒りも、好奇心も、敵意すらない。ただただ地面を這い回る虫の生態を観察するような、無機質で冷たいガラス玉のような瞳が、びっしりと一行に張り付いている。
「ひっ……」
喉の奥からせり上がった小さな悲鳴を、カーラーは咄嗟に両手で己の口を強く塞ぎ、無理やり飲み込んだ。恐怖で膝が震え、その場にへたり込みそうになる体を必死に抱きしめる。
スオスのこめかみからも、一筋の冷や汗がゆっくりと顎を伝って落ちた。
王国最強の勇者である彼が、本気で剣を振るえば、この程度の群衆など一瞬で鏖殺し、制圧することができる。彼我の戦力差は文字通り次元が違うのだ。
しかし、今スオスの背筋を撫で上げている不気味さは、物理的な暴力という次元で解決できる類のものではなかった。
(こいつら……たとえ半分殺して肉塊に変えたところで、残りの半分はこの目のまま俺を視続けるぞ……ッ)
狂信という名の底知れぬ深淵。そんな確信にも似た直感が、スオスの剣の柄に掛かる指を固く凍りつかせていた。
息の詰まるような沈黙。
その絶対的な重圧を。
「おや、皆様! 揃いも揃って我々の歓迎とは、なんとも嬉しいですねぇ!」
空気を読まないどころか、空気そのものを粉砕するような快活な声が弾けた。
「では! 行ってきますねーっ!」
リコーである。
彼は無数の不気味な視線が降り注ぐ中、満面の笑みを浮かべ、あろうことか壁の群衆に向かって両腕をぶんぶんとちぎれんばかりに振り回し始めた。
バッ、と。
ムロヤ、カーラー、スオスの三人は弾かれたように一斉にリコーへ振り返り、眼球が零れ落ちそうなほど目を見開いた。
そして――気のせいだろうか。
壁の中から一行を見ていた聖国人たちの群れが、ほんの僅かに、ざわっと揺らいだように感じた。一切の感情を排していたはずの彼らの顔面に、「なんだこいつは」という動揺の波紋が広がったような気がした。




