第二話「一筋の縄」
後日。魔力結晶の取引における後詰めの交渉。
その席において、ファルディスとムロヤは重厚な机を挟んで対峙していた。
肝心の当事者であるはずのリコーは、「ムロヤに全権委任しますので、よしなに!」と高らかに叫びながら手を振り、風のようにどこかへ去ってしまったのだ。
残された二人の間に、険悪なムードはない。机の上に置かれた両者の手に力みはなく、その双肩には『同じ理不尽な苦労を分かち合った戦友』のような、奇妙な連帯感すら漂っている。
おもむろに、ファルディスが静かに口を開いた。
「ムロヤ殿には、驚かされっぱなしです」
ファルディスは精巧な仮面のような商人の笑みを僅かに崩し、心底からの感嘆を示すように小さく首を振った。
「よく、あのような方と共に過ごせますね。あなたのその忍耐力は、純粋に尊敬に値します」
「え!? いやいや! ファルディス殿こそ!」
ムロヤは慌てて前のめりになり、両手を顔の前で勢いよく横に振った。
「あいつを帝国からの道中、ずっと制御していたではないですか! 驚いたのは私の方ですよ! 王国で馬車から顔を出したリコーをあなたが制した瞬間、私にはあなたが本物の救世主に見えましたからね!」
鼻息を荒くして身を乗り出すムロヤに対し、ファルディスはゆっくりと瞬きをし、困惑したように小首を傾げた。
「……わたしの目からは、ムロヤ殿こそがあの方のブレーキとなり、見事に制御しているように見えるのですが……」
ファルディスは机の上で両手の指先を静かに組み合わせ、ふっと自嘲するように視線を落とした。
「人という生き物は、存外、自分のことだけはよく見えない……ということなのでしょうか」
その達観したような呟きに、ムロヤはただただ目を白黒させ、開いた口をパクパクとさせることしかできなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
同刻、宿の一室。
薄暗い部屋の片隅で、水盤の縁を指の関節が白くなるほど強く握りしめ、リコーは前のめりに突っ伏していた。
「ガハッ……!」
大きく波打つ背中。胃の底からせり上がってきた熱い塊を、そのまま水盤へと吐き出す。
澄んだ水面に、赤黒い血の雫が飛び散り、濁った波紋を広げていった。
(……やはり、無理がたたっている、か)
荒い息を吐きながら、リコーは濡れた前髪の隙間から、自身の血で汚れた水面をねめつけた。
リン平原での戦闘からというもの、魔力結晶を明らかに使用しすぎた。ただの水でさえ、致死量を超えて飲みすぎれば人を殺す猛毒となる。ましてや、劇的な効果を及ぼす魔導の力をここまで多用し、無理やり己の器を拡張し続ければ、肉体が悲鳴を上げるのは当然の帰結であった。
リコーは水盤の縁にギリッと爪を立て、己の魔導の『器の小ささ』を呪うように強く奥歯を噛み締めた。
「……ムロヤの前では、絶対に言えませんがね」
肩を揺らし、フフッと乾いた自嘲の笑いをこぼす。
魔力が少なすぎて、魔導補士という日陰者にしかなれなかったムロヤ。そして、中級「どまり」という絶対の壁に阻まれ、それ以上はどう足掻いても進めなかったリコー。
どちらがより「不幸」であったのかなど、比べることは不毛すぎた。
リコーは水差しの水を注ぎ、自身の口元と水盤にこびりついた血を、冷たい水で丁寧に洗い流した。
濡れた手で顔を拭い、まっすぐに立つ。
そして、深い瞑想に沈むかのように、静かに両目を閉じた。
自分にできることを、する。
その決心だけは、血を吐こうが命が削れようが、微塵も揺るがない。
「……陛下」
リコーの薄い唇から、祈りのようにその単語がこぼれ落ちる。
リコーが『陛下』と口にする時、それは決まって、今は亡き先帝のことのみを指していた。
現在の玉座に座る皇帝をそのように呼ぶことなど、彼のプライドが、そして彼の魂が、決して許すことはなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
首都フェルガルドの南玄関口。
石造りの巨大な城門を背に、リコー、ムロヤ、スオス、カーラー、ファルディス、そして議長がそこにいた。
リコーたち四人は今、議会国を後にし、南に位置する巨大な宗教国家――聖国へと旅立とうとしていた。
しかし、特使としての華々しい功績にもかかわらず、見送りに立つ人員はファルディスと議長のわずか二人きりである。無理もない。聖国からの『異端審問』に応じる形での出立となれば、関わりを持つだけで火の粉が降りかかる。この二人にしても、聖国の監視の目を計算した上の、「客観的に見てこの一行と最も深く関わった者」だけが残るという、政治的にギリギリの配置の末の少なさであった。
乾いた風が吹き抜ける中、リコーは大仰な身振りでファルディスへ向き直った。
「ファルディス殿。どうやら我らの旅路は、ここでひとまずの別れを迎えるようです」
胸に手を当て、芝居がかった優雅なお辞儀をする。
「道中、あなたと共に過ごした数々の素晴らしい日々を、私は決して忘れないでしょう」
慇懃無礼が服を着て歩いている。その態度を前に、ファルディスは商人の仮面を顔に貼り付け、やっとの思いでこれに応じた。
「……我らの行く末がここで分かたれることは、運命だったのでしょう。どうか、ご武運を」
「おや」
リコーは目を丸くし、次いでくすくすと肩を揺らして笑った。
『忘れない』と言ったリコーに対し、『私もです』という社交辞令の同意をファルディスはあえて避けた。ファルディスらしからぬ、あまりにも直接的で冷たい決別の言葉。この男とはもう二度と関わりたくないという、超一流の商人からの魂の叫びであった。
その妙な空気をいぶかしむように視線を走らせながら、議長が進み出る。
「魔拳銃の非常に有意義な商談が成立したことは、間違いなく私の生涯の誉となるでしょう」
議長はリコーの目を見据えた。
「……もし。もし、聖国での用事が無事に終了し、帝国への帰路につくことができるのならば、必ずや再び我が国を通ることになるでしょう。そのときは是非、お立ち寄りください。お探ししている例の件も、もしかしたらその時には……」
議長の言葉に、横からムロヤが進み出て、ファルディスへと念を押すように言った。
「一月以内に、帝国へ実務官を迎えにいってくださいね、ファルディス殿。長旅ばかりで大変だとは思いますが……いかんせん、帝国人があの王国を無事に通り抜けるには、通商連合であるあなたの庇護がないと難しいですから」
「委細、承知しておりますとも」
ファルディスはいつもの、感情の一切読めない能面のような完璧な笑顔を浮かべてみせた。どうやら、ムロヤとの会話では商人としてのいつもの調子が出せるようだった。
少し離れた場所で、スオスとカーラーが静かに一行の出立を待っていた。
彼らもまたリコーと同行する。カーラーが御前試術の仔細を王国の参謀本部へと通信した際、返ってきた指示は極めてシンプルだった。
『リコーの観察、および暗殺の継続』
むしろ、同行者であった通商連合という大きな枷がここで外れた今、王国側はこれを絶好の機会と捉えていた。……自分たちの誇る最強の勇者と治癒士に、リコーから別の枷がはめられていることなど、微塵も知らずに。
それぞれの陣営が、思惑と打算、そして隠しきれない感情をその胸に抱え込んでいる。
「では、いってきますね」
そんな重苦しい空気を一陣の風で吹き飛ばすかのように、リコーがポンと手を叩き、極めて簡素で明るい挨拶を投げかけた。
それを合図に、リコー、ムロヤ、スオス、カーラーの四人は南の門をくぐり、神聖なる禁忌の国・聖国へと続く荒野の道へ、ゆっくりと歩みを進めていった。
更新ペースが乱れる(2日に1回になる)かもしれません。
遅れたらすいません。




