第十話「告白」
深夜。
街の灯りははるか遠くに霞み、道すらもない荒野が、ただ冷たく横たわっている。
月明かりの下、二人の男が立っていた。
スオスと、リコーだ。
スオスはリコーに呼び出され、ただそれだけの理由でこの最果てのような場所にいる。
いま現在のスオスの胸中を端的に表現できる言葉など、世界中のどの辞書にも存在しないだろう。
リコーは、両手にはめた黒革の手袋の指を、一本ずつ引き伸ばすように直しながら、芝居がかった手振りで語りかけた。
「スオス殿。今宵、あなたに一つの連絡と、一つの依頼がありまして」
「……喋るな」
スオスは、低く、押し殺した声で遮った。
右手はすでに、無意識に剣の柄を握り締めている。
(もう、殺そう)
思惑? 目的? たしかにそれは気になる。ムロヤが言ったように、こいつの『目的』ごと粉砕できれば、それは至上の快感だろう。
しかし、もはやスオスは――そう、限界であった。
この狂人の存在そのものに、神経が耐えられなくなっていたのだ。
圧倒的な力を持つがゆえに、世界をただの暇つぶしとして見てきた『空っぽ』な勇者。そんなスオスにとって、自らの命すら手駒として弄ぶリコーという男の異常な在り様は、劇物すぎた。
共にいればいるほど、ペースを乱され、己の輪郭が曖昧になっていくような強烈な不快感。
今すぐ、この手で八つ裂きにしたい。
一方で、殺せない。
なんでもできるはずの自分が、この男一人に対してだけ、何もできない。
いや、やろうと思えばいつだってできるのだ。誰であっても、俺の自由を侵すことなどできない。今も、そしてこれからも。
しかし――自分の暴力の前に、何の苦しみも、絶望も、恐怖すら見せずに『こいつに死なれる』という事実を想像するだけで、吐き気を催すほどの嫌悪感が腹の底から這い上がってくる。
殺したい。だが、苦しめずに殺すのは許せない。
だから今は殺せない。だが、生きていることすら腹立たしい。
幾度となく陥った堂々巡り。
出口のない思考のループに、スオスの精神は今まさに、白煙を上げて焼き切れそうだった。
「黙れ。もう一言でも喋ったら、俺は本当にお前を肉塊にするぞ」
スオスの足元の枯れ草が、彼から漏れ出る無自覚な魔力と殺気によって、音もなく弾け飛んだ。
リコーは声を出さず、ただ大袈裟に「ふむ」と口の形だけを動かして腕を組んだ。
そして、張り詰めた静寂の底へ石を落とすように、たった一言だけ言い放った。
「カーラー」
「……??」
スオスは、己の内に渦巻いていたどす黒い殺意が、一瞬にして不可解な空白に塗り潰されるのを感じた。自身の困惑を隠すことすらできない。
なぜ、こんな極限の状況で、あの臆病な少女の名が出てくる……?
たった数秒前、「一言でも喋ったら殺す」と宣言したばかりだというのに。スオスの手にある剣は微動だにせず、彼の耳は無意識のうちに、リコーの『次の一言』を待ってしまっていた。
――それは、最強の勇者がすでに、リコーの術中の、そのど真ん中に囚われているという事実を意味していた。
リコーは、底知れぬ狂気を隠すどころか、聖職者のような、慈愛すら感じさせるほどの柔らかな笑みを浮かべ、悠々と語り始める。
「彼女もまた、毒を浴びています。彼女は本当に優秀な治癒士なのですね。間近で見ると、魔力の活性が迸るほどに強い。彼女が平然としていられるのは、自身の自己回復が侵食に追いついているか、大した不調を感じない程度に抑え込めているからでしょう。――――今のところは、ですがね。解毒しない以上、彼女の命運が尽きるのは、まさに時間の問題です」
「――――ッ」
スオスは、己の視界がどす黒い赤に染まり上がる幻視を見た。
毒。毒。毒。こいつは何を。
毒とは、まさか。まさか!
「そう。あの砦で私が撒いた、『先帝の遺産』です」
リコーは、まるで懐かしい思い出でも語るかのように目を細めた。
「彼女があの極限の瞬間、毒を浴びながら『なぜか動けた』ことには、私も本当に驚かされましたよ。まさか、あの震えてばかりの少女が貴重な治癒士であり、あまつさえ、あれほどの毒を受けてなお行動できるほどの逸材だったとは!」
スオスは、これまでカーラーという存在に対して、特別な何かを感じている自覚など一切なかった。
しかし今、「彼女が毒に侵されている」という情報が鼓膜を打った瞬間、彼の『からっぽ』な内面が激しく揺さぶられた。
そこには明らかに、なにか『もや』のような、得体の知れない歪でトロトロとした熱いものが、確かに生み出されていた。
一瞬だった。
スオスは剣を抜き、距離を詰め、リコーの喉仏にその白刃を押し当てていた。
斬撃の風切り音すら置き去りにする、耳鳴りがするほどの静寂。勇者の神速を前にして、リコーは瞬き一つしていなかった。
「言え……ッ!! どうすれば……っ」
自分がいま、目の前の男に答えを『乞うてしまっている』という屈辱すら忘れて、スオスは獣のように唸った。
「解毒薬を作れるのは、この世界で私だけです」
リコーが、喉に食い込む刃を一瞥もせずに答える。
スオスの端正な顔が、ぐにゃりと醜く軋んだ。
「先帝より魔道具の深淵なる手ほどきを受けた弟子のうち、私ほどあの方の技術を完璧に受け継いだ者はおりませんでした。……私であれば、あの毒の解毒薬を『いつか』作り出すことができるでしょう」
「……?」
スオスの脳髄が沸騰しそうになりながらも、必死に思考を回す。
いつか、作れる?
どういう意味だ。いま出せ。いま出せば、お前を殺せる。
「おや、おや。大丈夫ですか?大事なことなので、よく聞いてください」
リコーは小首を傾げ、絶望を勇者の耳元に優しく囁いた。
「解毒薬は、まだこの世に存在しないのですよ。また、先帝の遺産が完全に消失した今、あの毒について私以上に詳しい人間も世界に存在しません。……これ以上の説明は、不要ですよね?」
スオスの瞳孔が、極限まで収縮した。
つまり。
今こいつを殺せば、解毒薬が完成する可能性は永遠に失われる。カーラーを救う方法は、完全に断たれる。
解毒薬の現物がない以上、奪うこともできない。
それは――スオスが今後、リコーの命を誰よりも丁重に守り、『生かし続けなければならない』という宣言に等しかった。
「これが、私からの『連絡』です」
種明かしが、荒野の静寂に溶けていく。
「あああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!!!!!!」
深夜の荒野を、咆哮が引き裂いた。
スオスはあらん限りの魔力を解放し、渾身の、理不尽な死の暴力を全方位へと叩きつけた。
大地が爆ぜ、岩が粉砕され、暴風が周囲を更地へと変えていく。王国最強の勇者による、世界そのものを破壊するかのような圧倒的な力。
――――しかし。
そのすべての暴力は、微笑むリコーの立ち位置だけを、見事に『避けて』いた。
※この物語はハッピーエンドで終わります。
第四幕は、もう2,3話続く予定です。




