第八話「死人」
宿の、ムロヤの自室。
本来であれば深く休息し、明日も続くであろう次なる理不尽に備えるための、何よりも貴重な保養時間であるはずだった。
しかし今、そこには世界で最も招かれざる異物が一人、ベッドの縁に腰掛けていた。王国、いや、人類最強の勇者。
(……ひぃぃぃぃぃぃぃっ)
ムロヤは、己の首を何度も何度も撫で回しては、頭部がまだ胴体に繋がっているという事実を確認せずにはいられなかった。
いったいこの理不尽の化け物が、自分のような矮小な凡人になんの用があるというのだ。
「ムロヤさん。ちょっとお話、しようよ」
(それは、『お話』という名の暴行ではないでしょうか……?)
喉まで出かかった悲鳴と抗議を胃液とともにぐっと呑み込み、ムロヤは引き攣った顔でスオスの問いに応えた。
「お、お話とは……?」
「なんで、あなたはアレと一緒にいるの?」
スオスは小首を傾げ、しかしすぐに「いや、違うな」と自己完結するように笑った。
「俺、アレを殺したいんだよね。……いい? もし俺の邪魔をするなら、俺はあなたに特に思うところはないけど、容赦なく殺すことになると思うから。とりあえず、それだけ伝えておこうかなって」
「……なるほど」
「あれ? 怒らないの? あなたはアレと親しくないの?」
「うーん……なんというか……」
「……いいよ。正直に言ってよ。怒らないし、殺さないからさ」
無邪気な子供が昆虫の羽をむしる時のような、底なしの悪意を含んだ声。
ムロヤは観念したように、小さく息を吐き出した。
「……あんたには、リコーを殺せないよ。……たぶん」
――その瞬間。
スオスが抜いた剣が、ムロヤの首を完全に刎ね飛ばしていた。
……と、そう幻視してしまうほどの、物理法則を無視した絶速の剣捌き。
スオスは座ったまま流れるように剣を振り抜き、そして納刀していた。ムロヤの首の皮一枚の表面を、赤い線がツーッと走り、一拍遅れて血の雫が滲む。
「……う、うおおおおおっ?!」
時間差で死の恐怖を理解したムロヤが、情けなくのけぞって尻餅をついた。
「あはっ、ごめんごめん。……でも、なんでそう思うの?」
スオスは、悪びれる様子もなくニコニコと尋ねる。
「……俺も、あいつとの付き合いはなんだかんだ長いから、なんとなく分かるんだ。……あいつは、いっつも『自分が死んでもいいように』動いている。いや、あいつの頭の中の目的に、『自分が生き残る』って項目が、たぶん最初からないんだな」
ムロヤは、震える手で首の血を拭いながら、これまでの狂人の振る舞いを思い返していた。
「……つまり……なんつーか。あいつはもう生きてない。『死人』は、もう殺せないだろって、そういう話だ」
「……ふーん? よく分からないな。じゃあ、あいつは不死身? どうやっても死なないってこと?」
純粋な疑問を向けてくる勇者に、ムロヤは答えた。
自分でも、なぜこんなことを口走っているのか分からなかった。ただ、あの底知れぬ男の『終わり』があるとすれば、それしかないという妙な確信があった。
「……い、いや。俺もただの勘で喋ってるだけだから……。そうだな……でも……。あいつが本当に『死ぬ』としたら……。あいつの『目的』ごと、その心が木っ端微塵に砕かれた時……そうなるんじゃないのかな」
スオスの目が見開かれた。
ムロヤの語った言葉は、「目的を果たそうとするその最高の瞬間に、絶望とともに殺せ」というリークライトの言葉と、ほとんど同じだったからだ。
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同刻。同じ宿の食堂。
(これは……)
ファルディスは離れた席で軽食を摂りながら、この旅で一度として見なかった、あまりにも不可解な光景を目撃していた。
そこにいるのは、向かい合ってテーブルにつくカーラーとリコーの二人だった。
「おやカーラーさん、お一人とは珍しい」「このミートパイは絶品ですよ」などと、リコーはいつもの調子で一方的に明るく話しかけ、当たり前のように同じ席を占拠している。
そして何より驚くべきことに――あの怯え切っていた少女が、自らリコーに何かを問いかけていたのだ。
対人恐怖を抱え、常に化け物たちの影で震えている少女が、あの狂気の男と対峙している。
ファルディスは、己の能面のような笑みが一瞬だけ引き攣るのを否定できなかった。何を話しているのか純粋に気になったが、二人の声は低く潜められており、ここまでは届かない。
――実際のテーブルでは、息の詰まるようなやり取りが交わされていた。
「あの……リコー殿……」
「はい! なんでしょうか、カーラーさん」
カーラーは、恐怖で胃が裏返りそうな感覚を脳内で「対処可能なタスク」として無理やり処理し、声の震えを必死に抑え込んでいた。どうしても聞きたいことが、二つあったのだ。
「まず……砦でのこと……。わ、私は自分の役目を果たしたまでですが……さぞ、不快に感じられたかと……。しゃ、謝罪というのもおかしな話ですが……その、ずっと気になっていて……」
「なんだ、そのようなことですか! それを言えばこちらも同じこと。お互い殺し合った仲なのですから、思うところがあって当然です。ですが、今はこうして同じミートパイをつつく間柄。これを縁と言わずしてなんと言いましょう!」
「……い、いや……お、同じミートパイでは……」
軽やかに会話を流すリコーに対し、カーラーは小さく息を呑み、本題である二つ目の問いを投げかけた。
「……あと、ス、スオス殿の……その……『症状』についてなのですが……」
「! ……ああ! やはり『そう』でしたか」
リコーの目が、愉快そうに細められた。
「ええ、あの毒……先帝の遺産たる『悪意の聖杯』の毒は、いくら高度な活性魔導を用いようと完全な解毒は不可能なのです。あの悪辣極まりない毒は、一度侵された者を決して逃しません。つまり……あの勇者の寿命は、長くてあと十年といったところでしょうね」
リコーは、明日の天気でも占うかのように、歌うような軽い調子で言い放った。
「……っ! げ、解毒方法は――」
「解毒方法は、ありますよ」
リコーはすっと身を乗り出し、カーラーの耳元でこしょこしょと何かを囁いた。
直後、彼が顔を戻した時、その両眼は見つめた者を呑み込む、新月の闇を切り抜いたかのように、一切の光を失っていた。
「―――――」
カーラーは一瞬あっけにとられた顔をして、そのあと何かに気付き、そしてガタガタと全身を激しく震わせた。
リコーが耳打ちしたその『解毒方法』と、目の前の男の底知れぬ得体の知れなさに気圧され、彼女はもう、声を発することすらできなくなっていた。




