第六話「仕込み」
先ほどの惨劇の血の匂いを荒野に置き去りにして、通商連合の馬車はさらに南へと進んだ。
やがて一行の視界が開け、国境を隔てる雄大な大河が姿を現す。
川幅は、およそ三百メートル。
底知れぬ水深と、馬車の足など容易くすくう荒々しい濁流が渦を巻いている。軍隊の進軍はおろか、立ち入る者すべてを拒絶するこの大自然の要害こそが、王国と南の地を隔てる絶対の防壁だった。
だが――その大自然の脅威を正面からねじ伏せるように、一本の巨大な橋が架かっていた。
帝国や王国に満ちている「魔導」の気配は、そこには一切ない。
大河の激流に抗うように、城壁のごとき分厚い切石の橋脚が等間隔で何本も川底へと打ち込まれ、巨大な土台を形成している。そして、その土台同士を繋ぐように、幾何学的に組まれた無骨な鉄のアーチが幾重にも連なり、対岸へと伸びていた。
魔導という便利な奇跡には一切頼らない、純粋な『土木施工と建築技術』の結晶。
人間の泥臭い執念と莫大な資本、そして緻密な計算の果てに自然を支配したその重厚な威容は、これから一行が足を踏み入れる『議会国』の底知れぬ力を、無言のうちに世界へと見せつけていた。
馬車の車輪が黒鉄の橋を渡りきり、重厚な音を立てて議会国側の堅牢な関所へと到着する。
事は、そこで入国審査を待っていた、その時に起こった。
「やあやあ、これはファルディスさん」
馬車を降りたファルディスの前に、豪奢な衣服に身を包んだ、恰幅の良い太った男が愛想笑いを浮かべて立ち塞がった。
「おや、これはギット商会の……。こんな国境の関所で、奇遇ですな」
ファルディスもまた、完璧な商人の笑みを貼り付けて応じる。
当然、奇遇などであるはずがない。この男は議会国内におけるファルディスの政敵であり、通商連合が「帝国の特使」を連れ帰るという情報を聞きつけ、先回りして待ち構えていたのだ。
白々しい探り合いの末、ファルディスが意図的に馬車の中にいるリコーの名を出すと、太った男はこれ見よがしに目を丸くして、大仰に驚いてみせた。
「なんと!? いや、ファルディスさん。私のただの気のせいならば、それで良いのですが……」
男は声を潜め、しかし周囲の国境警備の役人たちにはっきりと聞こえる絶妙な声量で囁いた。
「『リコー』。……その名は、つい最近、王国の噂で耳にしたことがありましてな。なんでも、コールウォー砦の戦いにおいて、禁忌とされている『魔力脈を数百年ぶりに暴走させた重罪人』だとか……」
ファルディスの細い目が、スッと冷たい光を帯びる。
「ファルディスさん。仮にも通商連合の看板を背負う貴方が、そのような世界を敵に回すような『悪魔』を我々の国に引き入れるなど、あってはならないことだ。……よろしかったら、我々ギット商会の権限において、国境警備隊と共にその男の素性を『お調べ』いたしましょうか?」
男の分厚い唇が、ニチャリと歪な弧を描いた。
「調べる」とは建前だ。要するに、「特使を重罪人の疑いで拘束し、お前の政治的成果をここで丸潰れにしてやる」という、強烈な宣戦布告であった。
しかし──いや、だからこそか、待ってましたとばかりに、リコーが実に愉快そうに馬車から前に躍り出た。
「おや。先ほどから私のことが話題になっておりますか? 是非、私めもその、楽しげな会話に入れていただきたく!」
ギット商会の男ーー大手代は、瞬き一つでその状況を飲み込み、次いでこれみよがしに大袈裟な身振りをしてみせる。
「おお! 貴殿がリコー殿か! いやなに、ほんの些細な、つまらぬ噂の確認ですよ。ですが、内容が内容。これから向かう我が国で『いらぬ面倒』を起こさぬためにも、少し私どもに『ご協力』いただければと。なに、悪いようにはいたしませんとも!」
表面上は快活に笑ってみせる大手代だが、その目は強欲と計算で濁りきっていた。
「ほう。噂、ですか」
「はい! なんでも、貴殿が魔力脈を暴走させたなどという、根も葉もない――」
「ああ! それであれば、事実です」
「……は?」
「ですから。リン平原における魔力脈の人為的な暴走。その首魁は、この私で間違いありません」
あっさりと世界規模の禁忌を認めた男の言葉に、馬車の中から「ヒイッ……!」とムロヤとカーラーの揃った悲鳴が漏れ出た。スオスは無言のまま、じっとリコーを見つめ成り行きを見ている。
ファルディスもまた、目を細めるばかりでリコーの暴走めいた挙動を止めようとはしない。
大手代は一瞬絶句したものの、すぐにニヤリと下品な笑みを浮かべた。
「……それは、全く聞き捨てがなりませんな。そのような危険な技術、我が国の安全保障に関わる重大事案。緊急事態と判断いたします! 私が国の機関の代行として臨時に調査を行い、上へ報告させていただきましょう……まずは、その技術のすべてを開示していただきましょうかな? もちろん、我が国に敵意がないのなら、快く受け入れてもらえると信じておりますが!」
「はい! ではお見せしましょう!」
リコーが屈託のない笑顔で答えた、その瞬間。
彼の足元から、音もなく青白い魔導の光が揺らめき立った。直後、足元の重厚な石畳が、まるで煮え立つ泥のようにトロトロと液状化していく。
「ひっ……!?」
魔導の専門知識を持たない大手代は、目の前で起きた怪奇現象に一気に顔を強張らせた。
「こーんな感じで! たしか議会国のお隣でしたよね、『グーラ』は。ええ、あれを今ここで再現させていただきました! ご安心ください、このあたりの魔力脈も、たったいま崩壊が始まりましたよ!」
「な、な、な……っ!?」
「我々は相応の『耐性』がありますので平気なのですが……なにせ『すべてを見せろ』とおっしゃられたもので。あなた様も当然、崩壊領域に対する『対策』はお持ちの上でのご要求だと思って発動したのですが……その、『大丈夫』ですか?」
リコーは心底心配そうに首を傾げてみせる。皆まで言うまでもないが、これは全てリコーのブラフであった。自身の地形魔導で靴に仕込んだ魔力結晶を沈め、あとはリン平原で行った操作をごく小規模で発動したに過ぎない。当然、魔力脈の暴走など起きようはずがない。しかし、大手代の反応は劇的であった。
「ひいいい!? く、狂ってる!! 狂人だーーーッ!?」
大手代はなりふり構わず脱兎のごとく逃げ出した。背後で何か脅迫めいた捨て台詞を怒鳴っていたようだが、途中で盛大に転んだためよく聞き取れなかった。
リコーは去っていく背中を爽やかに見送ると、何事もなかったかのようにファルディスへ振り返った。
「おや? お友達は、どうされたのでしょう? 私の『冗談』はお気に召さなかったでしょうか」
「……そのようですね。私としても、非常に残念です」
ファルディスは、能面のような笑みのまま、静かにそう答えた。




