第五話「本能」
「……リコー殿。少々、よろしいでしょうか」
馬車の規則的な揺れの中、ファルディスが完璧な能面の笑顔で語りかけた。
「我が祖国である議会国へと向かっている最中なのですが……実は少々、私と『付き合いのある方々』がこちらに向かっているようでして」
「なんと! それはそれは。旧情を叙するとは、実に素晴らしい! しかし、我らが過酷な運命は、その穏やかな時間を許してくれるのでしょうか……?」
「ええ、そうなのです。そこでご相談なのですが……」
ファルディスは、さも心苦しそうに眉を下げた。
「私が前に出ますと、どうしても積もる話に花が咲いてしまい、旅の遅れに繋がりかねません。そこで、リコー殿。大変申し訳ないのですが……どうか『角の立たない形』で、私の『知り合い』たちに機会を改めるよう、伝えてはいただけないでしょうか。帝国特使たる貴方にこのような雑事をお願いしてしまうなど、忸怩たる思いではあるのですが……」
言葉の響きはどこまでも丁重で、腰が低い。
だが、その腹の底は真っ黒な打算で満ちていた。
ファルディスは事前に入手した情報から、その『知り合い』――すなわち、自身の、ひいては通商連合の台頭を疎む議会国の政敵が差し向けた私兵たちが、間もなくこの馬車を襲撃しにやってくることを完全に把握していた。
彼はこのイベントを利用し、この胡散臭いペテン師がどう動くかを観察する腹積もりだった。私兵の剣を前に泣き喚くか、あっさり寝返るか。自らの手を一切汚さず、政敵の刃を踏み台にしてリコーという人間の解像度を高めるための、極めて悪趣味な試金石である。
しかし、底知れぬ悪意に満ちたその提案に対し、リコーはまるで舞台演者のように大仰に胸を叩いた。
「なんと。承りました! このリコーめにお任せを!」
両目を三日月のように細め、リコーは喜々として言い放つ。
「しかし、ご友人がたも間が悪い。もっと違うタイミングでしたら、ゆっくりと時間も取れたでしょうに……ええ。私からそのことも、しかと! お伝えさせていただきますとも!」
あまりにも快活なその声に、隣で聞いていたムロヤの背筋にゾクッと悪寒が走った。
長年彼に振り回されてきたムロヤには分かる。リコーの言う「伝える」や「角の立たない形」が、一般的な対話や穏便な解決を意味しているとは、どうにも思えなかったのだ。
「……あははっ、いいじゃん。なんか面白そうなのが来るの?」
対面の席で退屈そうに欠伸をしていたスオスが、獰猛な笑みを浮かべて身を乗り出す。
それぞれの悪意と打算を乗せた馬車は、やがて政敵の待ち受ける荒野へと差し掛かろうとしていた。
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今、馬車は荒野の真ん中で完全に静止していた。休憩のためではない。抜き身の剣と、むき出しの暴力を突きつけられ、強制的に行手を阻まれているからだ。
馬車の外からは、ガラの悪い怒声が絶え間なく響いてくる。
「さっさと帝国の特使とやらを出せ! 取引は俺がしてやろう! なーに、命より高いモノなんざねーさ! ちーっとばかし『割引』してくれるだけでいい! そうだな、『十割引』なんてどうだ?! ギャハハハハッ!」
車内でその下品な笑い声を聞きながら、ファルディスは内心でひっそりと冷や汗をかいていた。
(……あの男、シュルージ商会の抱えのゴロツキで見たことがあるな。貧ずれば鈍ずる、か。ここまで直接的な暴力に出るとは。悪手すぎて笑いも出ん)
最悪、特使を殺してしまえば利益の独占は防げるし、責任は野盗に擦り付けられる。そんな安直な算段なのだろう。
ファルディスが、いざという時の脱出経路や賄賂の額について頭の中で猛烈な速度で算盤を弾いていた、その時だった。
「やあやあ! なかなか素敵なご提案、どうもありがとう!」
ファルディスが思わず目を疑うほどの、文字通りの狂気。
なんとリコーが、丸腰のまま自ら進んで馬車の外へ歩み出てしまったのだ。
「私が帝国の特使、リコーという者です! 以後、お見知りおきを!」
「……おめえ、バカなんか?」
襲撃者の男が、凶悪な笑みを浮かべてリコーの喉元に冷たい剣の腹を押し当てた。
「ああ、自慢の魔導があれば、なんとかなるとでも思い上がってんのか? お前が魔力を練った瞬間に、お前の首を飛ばす時間くらいはあるぜ!」
リコーは喉に剣を突きつけられながらも、一切表情を変えなかった。
「ほうほう。まさか、そのような。より良い条件で取引ができる可能性があるのであれば、まずは話を聞くのが基本でしょう? さて、私からも一つ『条件』をよろしいでしょうか」
「……あ? 命より重い条件があるってんなら、言ってみろよ」
男が剣の切っ先を、リコーの皮膚にギリッと食い込ませる。
「では、一つ」
リコーの目が、スッと細められた。
「『聖国』の要人への確実な取次ぎルート。これを用意していただけるなら――『十割引』、喜んでお受けしましょう」
「…………あ?」
襲撃者の男は、思考が停止した。
目の前の男は、怯えるでもない。狼狽えるでもない。かといって、虚勢を張って強気に出ているわけでもない。
ただ、心底から「その対価ならお安い御用だ」と、あまりにも純粋に微笑んでいる。
なんだ、こいつは。
男の生物としての本能が、得体の知れない『異物』に対する強烈な恐怖と嫌悪の警鐘を打ち鳴らした。
(ヤバい、こいつは人間じゃ――)
戦慄が指先を強張らせた。その引き攣った全身の拒絶が、無意識のうちに剣を握る腕を前に突き出させてしまう。
ズブッ……!
鈍い音を立てて、剣先がリコーの喉元に突き刺さり、鮮血がぶしゅりと宙に飛び散った。
リコーは平然としていた。表情も、佇まいも、剣が肉を貫く前後で何一つとして変わりはしない。ニコニコと、自身の喉を抉っている男を、まるで親愛なる友人を見るかのような目で見つめている。その凄絶な異物感。
痛覚の欠落した狂気を至近距離で浴びせられ、男の自我が音を立てて砕け散ろうとしていた。恐怖の限界を迎えた男は、目の前の怪物を抹殺せんと、さらに剣を突き入れるべく腕に力を込める。
――その瞬間、動いた男がいた。スオスだ。
(ありえない!!)
スオスの視界の中で、世界が泥のように遅くなった。
彼は、リコーを助けるつもりなど微塵もなかった。
だが、こんな……こんなあっさりと、しかも自分が全く関わらない三流のゴロツキの手によって、あの男が無為に死ぬなど。
(許せるわけがないッ!!)
こいつはまだ、何も絶望していない! まだ何も苦しんでいない!
俺の獲物を、俺の初めての『娯楽』を、こんな有象無象が壊すなど、絶対に許さない!!
「――――ッ!!」
暴風が吹き荒れた。
スオスが馬車から飛び出した直後、連続する破裂音と、骨の砕ける鈍い音が荒野に木霊した。
斬撃ですらない。ただの純粋な暴力。
襲撃者たちは、悲鳴を上げる間もなく、何が起きたのかすら理解できないまま、文字通りひき肉の塊となって大地に散乱した。
血の雨が降り注ぐ中。
「ヒィィィッ……!!」と半狂乱で泣き叫ぶカーラーの治癒魔法によって、リコーの喉の傷は瞬く間に塞がっていった。
一方の、馬車の窓にしがみついたムロヤは、ただでさえ限界だった胃を押さえて完全に過呼吸に陥っていた。喉を貫かれたリコー、飛び出した勇者、一瞬でひき肉にされたゴロツキ。あまりにも過剰な情報量に脳が焼き切れそうだ。だが、パニックを起こした頭の片隅で、とある矛盾が妙に鮮明に浮かび上がっていた。
(──待て。なぜあの勇者は、今、リコーを『助けた』んだ……!?)
「やれやれ、手痛い歓迎でしたねえ」
ムロヤの胸中を知ってか知らずか、リコーは平然と、自身の首筋についた血をハンカチで拭いながら、馬車の扉に立ち尽くすファルディスを振り返った。
「なんと、いきなり攻撃されてしまいました。……いくらご友人とはいえ、これはいただけない。申し訳ありませんが、これは『正当防衛』です。ね? ファルディス殿?」
ファルディスは、絶句していた。
自らの命を一顧だにしない狂人。あるいは、瞬きをする間に一箇小隊規模の人間を惨殺した化け物。
完璧に編み上げたはずの計算式が、脳内で音を立てて瓦解していく。
(……私は、とんでもない怪物どもと同じ箱に乗ってしまったのではないか?)
冷徹な商人の顔面から、余裕が消え去っていた。
そんなファルディスの戦慄を他所に、リコーは血の海の中に佇む勇者へ、心底嬉しそうに笑いかけた。
「いやあ、素晴らしい太刀筋だ! 護衛の任、ご苦労様でした。大変、助かりましたよ!」




