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第四話「二人」

名もなき一兵卒は、自身の顔にこびりついた泥を乱暴に拭いながら、大きく安堵の息を吐いた。無意味としか思えない幾度もの迂回、予期せぬ山賊の襲撃、そして実質的な指揮官であった副官の追放。どれほど到着が遅れたことかと考え、ふと砦の壁に掛けられた黒板の日付に目をやり、兵士は歩みを止めた。

指折り数え、自身の記憶と照らし合わせる。

今日は、本国を出発する際に通達されていた、当初の「到着予定日」そのものであった。


兵士は前方に視線を向ける。

漆黒の軍服を纏うリコー・タディーカは、出迎えた砦の最高指揮官が差し出した右手を握ることもなく、指揮杖の先端で次々と物資の搬入先を指示していた。労いの言葉ひとつ発することなく、まるでそこにある石段にでも話しかけるような手短で一方的なやり取り。

頭の悪い自分には、軍の機微など到底理解できない。兵士は自分の思考を、背筋に這う冷たいものを振り払うように、足早に荷馬車へと向かった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「……お前のやり口には、呆れ返るしかないな」


砦の奥、薄暗い石室に当てがわれた執務室で、ムロヤは深く、ひどく疲労したような溜息を吐き出した。帝国魔導院時代からの同窓生であり、先ほどリコーの「新しい副官」に任命された男である。


「なぜ本国を出発する段階で、俺を副官に指名しなかったのか疑問だったが。その理由も、腑に落ちた。道中の()()()()をすべて被せるための生贄が必要だったのだろう?」

「おや」

「だがな、リコー。『荷物』の制御はできないんだ。下手すると半壊、いや全滅もあり得た。今回はたまたま都合よく山賊があの『荷物』の馬車を襲って、目論見が上手く運んだからいいようなものの……」


書類束に目を落としていたリコーは、ゆっくりと顔を上げた。彼は胸に片手を当て、芝居がかった動作で大げさに頭を下げる。


「おお、これは耳の痛いお言葉。新任の副官殿のありがたいご忠告に、心よりの謝意を示しましょう」


張りのある、よく通る声だった。しかし、その声色にも、持ち上げられた顔にも、反省の色など微塵もない。


「しかし、ムロヤ」


リコーは革手袋の指先を撫でながら、声音の温度をすっと下げた。


「今回のことを『都合よく』、『たまたま』なんて理解の仕方をしてたら、すぐに死んでしまいますよ?」

「……なんだと?」

「山賊の拠点の位置、性質、前副官の無能さ、まあ、あとはいませんでしたが伏兵の規模。知りえる、操作しうる情報を統合し、盤上に乗せたうえで最善を実行する。たまたま都合よく? ご冗談を。いちおう、山賊が襲ってこないパターンも考えていましたが…。まあ、このくらい、頭があれば誰にでもできます。万が一にも失敗が許されないからこそ、張り巡らせる糸は多い方がいい。」


ムロヤは親指と人差し指で、自身の眉間を強く揉みほぐした。同窓生の、常軌を逸したやり用は今に始まったことではない。


「帝国軍人は結果がすべて、ですよ」


「お前がどれだけ舌先で屁理屈を捏ねようが、このやり方はいずれお前自身を軍法の罰の対象にするぞ。わかっているのか? わかっててやってるよな!お前は」


ムロヤは机に両手をつき、リコーを真っ直ぐに睨みつけた。


「『荷物』の起動は、うまくいった。次は一体、何を企んでいる」


気の置けない二人の、しかし確かな緊張を孕んだ問いかけ。

リコーは立ち上がり、窓際へと歩み寄った。鉄格子の向こうには、リン平原、さらにそのはるか先には、王国が。彼は薄い唇の両端を吊り上げ、肩をすくめてみせた。


「企むだなんて、人聞きの悪い。私はただ、何事も下準備は丁寧に。それだけのことですよ」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「あーあ、つまんないの」


豪奢な天蓋付きのベッドに寝転がりながら、スオス・ハイムは大きく欠伸をした。天井に描かれた緻密な宗教画に向かって、手にした林檎を放り投げては受け止める。


本来ならば、とっくにリン平原へ、砦に向けて出立しているはずだった。帝国の雑兵どもを聖剣で次々と血祭りに上げ、その悲鳴と絶望を浴びながら最高の気分で暴れ回る。そんな血湧き肉躍る予定が、本部のたった一枚の紙切れによって無惨にも白紙にされていた。


『勇者スオスは、次の命令が下るまで、特別室にて待機せよ』


「お爺ちゃんたちは本当に動きが鈍いなあ」


林檎を齧りながら、スオスは独り言ちる。

彼一人が馬を飛ばせば、今頃はとうに前線に辿り着いている。巨大な組織の合意形成や、補給線の構築、部隊の再編成。そういった軍という生き物の鈍重な手続きなど、スオスの知ったことではない。

彼にとって戦争とは、自分の圧倒的な力を見せつけ、世界が自分にひれ伏す様を楽しむための、少しばかり血生臭い遊戯でしかない。


コンコン、と控えめなノックの音がして、豪奢な軍服を着た伝令の士官が入室してきた。手には銀の盆に乗せられた、封蝋の施された指示書がある。


「スオス・ハイム殿。参謀長閣下より、特命が下りました」


「やっとか。待ちくたびれて体がなまっちゃうところだったよ」


スオスはベッドから跳ね起き、士官の手から指示書をひったくった。封蝋を無造作に引き裂き、中身に目を通す。


『勇者スオスは、専属の治癒士カーラーを伴い、直ちにリン平原へ移動せよ。帝国軍を、その戦意もろとも粉砕しつつ、コールウォー砦へ突入、これを奪取せよ。』


指示書に目を通した瞬間。

常に屈託のない笑みを浮かべていたスオスの表情から、スッと感情が抜け落ちた。

上質な羊皮紙がカサリと音を立てる。瞳孔が僅かに収縮し、呼吸が浅くなる。


「……治癒士、カーラー」


スオスは指示書に視線を突き刺したまま、低く呟いた。

士官は怪訝そうに首を傾げる。


「はい。王国最高の治癒魔法の使い手にして、参謀長直々の推挙によるお方です。すでに出立の準備は整っており、中庭でお待ちとのことです」


スオスはゆっくりと顔を上げた。

その目は、先ほどまでの無邪気な少年のものではなく、得体の知れない影を宿している。


「あのさ」

「は、はい」

「……だれ?」


朗らかな、しかし酷く底冷えのする声で、スオスは首を傾げた。

書きたいように、書く!

読んでいただき、ありがとうございます。

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