第三話「無能」
一枚の極厚の鉄板と、幾重にも張り巡らされた巨大な鎖。それらに厳重に拘束され、縛り付けられている『何か』。
ぬらぬらとした黒い油を滴らせる、異形の鉄の塊だった。動物などでは決してない。だが、それは明らかな鼓動を持って脈打ち、赤黒い光の線を体表に走らせていた。圧倒的な死の気配。触れれば命が消滅すると本能が理解する、純粋な殺意の塊だった。
バオトの開いた口から、ヒュッと情けない風切り音が漏れる。自慢の魔法の斧が、手から滑り落ちて泥の上に鈍い音を立てた。全身の毛穴が開き、氷水のような汗がどっと噴き出す。
どこからともなく、腹の底から愉快でたまらないといった、大仰な笑い声が聞こえた気がした。
馬車を覆っていた分厚い布が完全に弾け飛んだ。
拘束の要であった巨大な鎖が、内側からの異常な膨張によって飴細工のようにひしゃげる。鼓膜を圧迫するような重低音が響き、赤黒い光の線が幾何学的な紋様を描いて、黒い油の滴る鉄の塊の表面に浮かび上がった。
山賊バオトが悲鳴を上げるための息を吸い込むよりも早く、鉄の塊から無数の鋭利な刃を備えた鋼の節足が展開された。
一切の予備動作もなく、ただ機能としてそこに在ったかのように振るわれた一閃が、バオトの巨体を無造作に両断した。血飛沫が上がる間もなく、次々と放たれる不可視の刺突と斬撃が、馬車の周囲に群がっていた山賊たちを瞬く間に原形をとどめない肉の絨毯へと変えていく。
阿鼻叫喚の地獄絵図は、ものの数秒で完成した。命乞いも、逃走も許されない。ただ純粋にして絶対的な暴力の蹂躙であった。
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「ああ……なんという悲劇でしょう!」
朗々とした声が秋の空に響き渡った。
リコー・タディーカは馬上から身を乗り出し、両手で顔を覆っていた。しかし、黒革の手袋の指の隙間から覗く両目は、血の惨劇を特等席で鑑賞する観客のように、爛々と熱を帯びている。
「帝国軍が誇る補給部隊のど真ん中が、あろうことか小汚い山賊風情に食い破られるとは! これは我が軍の歴史に残る、取り返しのつかない大失態だ!」
リコーの芝居がかった嘆き声に、副官が顔面を蒼白にして馬を寄せた。彼の目は、後方で血の海に沈む山賊たちと、赤黒い光を放ちながら不気味に蠢く『鉄の異形』に釘付けになっている。
「タ、タディーカ殿! なんですかあれは! 中央の馬車には食料が積んであるはずでは……! だいいち、中央の護衛を極端に薄く陣形を組むよう指示したのは貴方だ!」
副官の喉から絞り出された詰問に対し、リコーは顔を覆っていた手をゆっくりと下ろした。
彼の顔には、先ほどまでの大仰な嘆きは微塵も残っていない。ただ、極めて冷ややかで、薄氷のような無表情がそこにあった。
「指示? 護衛を薄くしろなどと、私がいつ口にしましたか?」
「な、何を……っ、貴方が無駄な迂回を繰り返し、兵を疲弊させたからこそ……!」
「ええ。私は迂回を命じました。しかし、陣形の構築と兵の配置の裁量権は、すべて実務を担うあなたに委ねていたはずだ。違いますか?」
リコーは手綱から手を離し、指揮杖の先端で副官の鼻先を真っ直ぐに指し示した。
「先ほどの伝令も、私ではなく真っ先にあなたへ報告を上げた。兵たちは皆、私ではなく、あなたを指揮官として仰いでいる。つまり、この無惨な防衛の失敗と部隊の損壊は、すべてあなたの采配ミスによるものです」
「詭弁だ! あなたが指揮官だろう!」
「『あなたはただの、お飾りの指揮官だ。ゆめゆめお忘れなきよう』、忘れないために、公式な発言として記録しています。実際、兵の大半は、私を指揮官とは認めてないという発言を一度はしていますねぇ」
「~~~~っ、あ、貴方が無能だからだろう! あんな、あんな化け物を隠し持って……!」
「化け物、とは聞き捨てなりませんね」
リコーの声の温度が、さらに一段階下がった。
「あれは、偉大なる先代皇帝陛下が遺された、我が帝国の至宝。この戦争を勝利に導いてくれる『答え』です。参謀本部の特務に従って運んできた先代陛下の御遺作を、下劣な山賊の目に晒してしまうばかりか、あろうことか。あろうことか、化け物呼ばわりするとは!万死に値する愚行ですよ」
副官の唇がわななき、言葉を失う。
この男爵家の三男坊は、なんなんだ。何を言っているんだ。無能だろう、無能の手際だっただろう。意味不明な迂回で下がった兵士の士気を、一体だれが補佐したと思っているのか。陣形の隙だと?敵の想定など、しなかったではないか。山賊など、不可抗力だろう。正規軍に襲い掛かってくる愚か者の存在など、一体だれがそれを予想できるというのだ。特務?こいつは、一体…。
そして、そのすべての責任を、自分が取らなくてはいけないとでもいうのか!
「ああ、あと…」
リコーは副官を見た。その目は、冷凍し、凪いでいた。
「『指揮官』のいうことを聞けない『無能の副官』は、いらないですねぇ」
「大帝国軍法、第十二条2項に基づき、貴官を現時刻をもって罷免します」
リコーは優雅な所作で懐から一枚の羊皮紙を取り出し、副官の胸元に突きつけた。なんとそこにはすでに、参謀本部の正式な印が押されていた。
「コールウォー砦は目前ですが、あなたはここで馬を降りなさい。歩いて帝都へ戻り、自らの無能を軍法会議で弁明することです。生きて帰り着くことができれば、いいですね」
絶望に顔を歪める副官から視線を外し、リコーは再び前方、朝霧の晴れゆくコールウォー砦へと向き直った。
後方では、山賊の肉を喰らい尽くした『先代陛下の御遺作』が、満足したかのように赤黒い光を収束させ、再び沈黙の鉄塊へと戻っていく音が聞こえていた。
「さあ、諸君。危機は去りました。隊列を整えなさい」
リコー・タディーカは、よく通る声で高らかに宣言する。
その横顔は、完璧な舞台を演じきった役者のように、底知れぬ達成感に満ちていた。
重厚な鉄格子が軋みを上げ、コールウォー砦の門がゆっくりと開かれる。ぬかるんだ長旅を終えた補給部隊が、泥を引きずりながら次々と石造りの城壁内へと吸い込まれていった。
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