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第三話「悪ふざけ」

「じゃあ、気をつけてな」


ムロヤは、心底からの安堵とともにそう告げた。

(ああ、やっと終わる……)

正直なところ、もう限界だった。ただひたすらに疲労困憊していた。この男の狂った思考には、これ以上到底ついていけない。今回の「魔力脈災害の偽装」という、世界中を敵に回しかねない悪ふざけを見せつけられ、ムロヤの彼に対する愛想はほぼ尽き果てていた。


いくら彼がかつての命の恩人であろうと、何事にも限度というものがある。こいつのいない平穏な砦で、あるいは帝都で、すり減りきった心をゆっくりと癒そう。ムロヤは遠くを見つめ、輝かしい未来を幻視していた。

しかし――リコーはきょとんとした顔で振り返り、無邪気に首を傾げた。


「え? 何を言っているんですか。あなたも一緒に来るんですよ?」

「…………は?」

「よかったですねえ! なんと国費で南国への旅行ができますよ! さあ、急いで荷造りを!」

「…………」


ムロヤの輪郭を繋ぎ止めていた魂が、静かに霧散して砦の空気に溶けていった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


――一方、砦に残ることになったバーナードの胸中は、さらに複雑怪奇なことになっていた。


感情の種類で言えば「歓喜」に近い、と自分でも思う。

なにせ、もう何から説明すればいいか分からないほど、戦士としての彼の誇りは完膚なきまでに打ち砕かれ、泥と唾を吐きかけられたのだ。道端の泥にまみれた亡者でさえ、今の彼を見れば哀れんで涙を流すだろう。これほどの蹂躙が、ほかにあるだろうか。

そんな悪夢のような男が、ついに視界から消え去ってくれるのだから。


(正直、殺したい……)

バーナードは血走った目で、馬車へ向かうリコーの背中を睨みつけていた。

今すぐにあの首を刎ねて、砦の門に飾りたい。いや、飾るのすら癇に障る。跡形もなく粉々に砕き、業火で燃やし尽くし、残った灰を魔導でガチガチに固めた上で、日ごとに軍靴で踏み潰してやりたい。


そんな、どうしようもない思考の沼に沈んでいたバーナードに対し、馬車に乗り込もうとしていたリコーが、ひらひらと手を振って言い放った。


「ではでは、バーナード指揮官。またぞろ血の気の多い『何某か』が、この要衝へ突っ込んでくるやもしれません。──おっと、名高いあなた様の前では、ただの『羽虫』にすぎませんかね? その時は、どうぞお好みの方法でお片付けくださいな」


最後まで人を小馬鹿にしたようなその軽口。

だが、その言葉には確かに、帝国の『壁』に対する絶対的な信頼ーーあるいは便利な壁としての評価が含まれていた。


バーナードはギリッと奥歯を鳴らし、何も答えずに背を向けた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


通商連合の豪奢(ごうしゃ)な馬車に揺られ、一行は王国の王都・ロチェストへと足を踏み入れていた。

窓の外には、大国の中枢にふさわしい活気あふれる街並みが広がっている。


ちなみに、当然ヤーカークーンでは「彼ら」の眼前を通った。通商連合の紋章を掲げた馬車でなければ、今頃は八つ裂きにされ、肉片すら残っていなかったであろうことは言うまでもない。


「いやあ、素晴らしい! 活気がありますねえ!」

リコーはまるで物見遊山の観光客よろしく、馬車の窓から身を乗り出してロチェストの街並みを満喫していた。


一方、向かいの席に座るムロヤは、そんなリコーを、世にも恐ろしい化け物でも見るような目で凝視し、滝のような冷や汗を流していた。


(正気かこいつは……ッ! つい先日まで、俺たちはこの国の軍隊と殺し合っていたんだぞ!? 万が一、生還した兵士の中にこいつの顔を覚えている奴がいて、見つかりでもしたらどうするつもりだ……!)


「リコー殿」

ムロヤの胃袋が限界を迎えようとしたその時、同乗していたファルディスが、氷のように冷たい声で咎めた。

「あまり子供じみた振る舞いは控えていただきたい。あなた方は通商連合の保護下にあるとはいえ、ここはあなた方にとっては敵国の、王都のど真ん中なのですよ」


「しかし、ファルディス殿! 私は今、感動に感動を重ねているのです!」

リコーは胸に手を当て、さも芝居がかった手ぶりで熱弁を振るう。

「なにせ、何年振りかもわからないくらい……ええ、本当に久しぶりなのですから!」


その言葉に微かな違和感を覚える間もなく、ファルディスは不気味な愛想笑いすら消し去り、冷徹な商人の顔で言い放った。

「……あまり調子に乗られると、連合の権限において、ここで馬車を降りていただくことになりますよ」


敵国の首都のど真ん中で放り出すという、明確な脅迫。

するとリコーは、ふふっ、と肩を揺らして笑った。


「……それも大変魅力的なご提案です。しかし、運命がそれを許さないようですので。承知いたしました、外を眺めるのはやめにしましょう」


リコーはあっさりと窓から身を引き、大人しく座席に深く腰を下ろした。


その瞬間――ムロヤの脳髄に、雷に打たれたかのようなすさまじい衝撃が走った。


(……あ、あのリコーが……素直に他人の言うことを聞いた、だと……ッ!?)


この男なら、この狂人を手懐(てなず)けられるかもしれない。

「ファルディス・ヌール」という男が、地獄のようなこの旅路における唯一の希望である。ムロヤの胸中に刻まれた歴史的瞬間であった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


王都ロチェスト、参謀本部。

報告を受けたリークライト参謀長は、表面上は凪いだ水面のような無表情を一切崩さなかった。

しかし、その精神の内側は、耐え難い苦痛と憎悪にのたうつ大蛇のごとく荒れ狂っていた。


(通商連合の馬車に……あいつが、あの悪魔が乗っている、だと……!?)


何がどうなって、そんな異常事態が起きたのか。あいつは、リコーという男は底抜けの莫迦なのか。自らが甚大な被害を与えた敵国の首都へ、平然と乗り込んでくるなど。

……いや、違う! あやつがわざわざ馬車から身を乗り出して顔を晒(さら)したのは──『私』か! 『この私』に向けて、自身の存在を誇示したというのか! あやつの顔は、世間にはほとんど知られていない。一般の兵や民に顔を見られたところで何の問題もないことまで、すべて計算の上で──


(あやつを。今、王都にいるこの好機に殺しさえすれば、我が王国は……!)


どす黒い殺意が沸点に達しかけた次の瞬間、リークライトは己の喉元に冷たい刃を突きつけるように、その衝動を強く諫めなければならなかった。


(……駄目だ。通商連合の保護下として同道している以上、今のあやつは『帝国軍人』として裁くことができない……!)


そもそも、先の平原での惨敗は、王国も帝国も建前上は「合同演習における予期せぬ事態」として処理しており、両国は「戦争をしていない」ことになっている。

もしここで、王都のど真ん中でリコーを暗殺すればどうなるか。

通商連合という絶対的な国際組織の顔に泥を塗るだけでなく、帝国に対して『平和な通商使節を王国が無法にも殺害した』という、これ以上ない完璧な「開戦の大義名分」を与えてしまうことになる。


(……くそっ! あの男、まさかそこまで計算ずくか……ッ!)


「り、リークライト様……」

押し黙り、微かに肩を震わせる参謀長を前に、報告を上げた部下が怯えた声を出した。

リークライトはゆっくりと目を開き、氷のように冷たく、しかし血を吐くような重い声で命じた。


「……ファルディス殿に、連絡を。これから議会国まで長い道のりを行くのだ。せめて数日はこの王都に留まり、十分に英気を養っていただかなければ『王国の沽券に関わる』と……そう、丁重にお伝えしろ」


せめて、時間稼ぎの足止めを。

そしてその間に、あの悪魔を確実に葬り去るための策を──それも、国際問題に発展させぬ完璧な策を、一刻も早く捻り出さねばならない。

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