第九話「竜喉の惨事④」
『北原濃霧事変』という戦いがあった。
リコーが特務の補給部隊としてこのコールウォー砦に送り込まれることになった、直接の原因である。
季節外れの濃霧が視界を白く塗り潰す中、王国軍は「賊の掃討」という名目で自軍をリン平原へと展開した。彼らは『ネズミ』の情報を元に帝国の間隙を縫い、コールウォー砦を大きく迂回して完全な包囲網を敷いたのである。
砦の最高指揮官たるバーナードの胸中は、いかほどのものであっただろうか。
絶対に塞がれてはならない本国への命綱、砦の「北側」の補給線を絶たれたのだ。おまけに、そこに陣取った王国兵はそのまま帝国領へとなだれ込むことすら可能な位置にいた。完全に敵の「背中」をとった王国軍は、誰もが勝利を確信したという。
しかし、バーナードの用兵は「鉄壁」。常軌を逸した「鉄壁」だった。
どれほど王国兵が魔導を撃ち込もうとも、騎馬で突撃しようとも、彼の砦は決して崩れない。王国軍――その最前線で無残に散っていったザンリードの戦友たち――から見れば、それは絶望的なまでに分厚く、高く、決して越えられない『壁』そのものだった。
だが、その『壁』の実態は、帝国兵たちの決死の覚悟と断末魔の悲鳴で練り上げられた、呪いの塗り壁に他ならない。
なりふり構わぬ泥仕合の結果、戦場は血液と人肉の絨毯で覆われ、脂と内臓の畑が延々と続くこととなった。平原は、端的に言って地獄だった。
結局、王国軍は多大な犠牲を払いながらもバーナードの『壁』を最後まで突破することができず、苦渋の撤退を余儀なくされたのである。
そして、バーナードは異常なまでに「背後」を嫌うようになった。
今回の戦いで砦の両翼に魔導士を厚く展開していた陣形も、王国軍を絶対に砦の「北側」へは回り込ませないという、彼の強迫観念に近い決意の表れだった。
この戦いの正式な呼称は、両国の公式文書において『北原濃霧事変』となっている。表向きは「濃い霧のためにおきた、悲劇的な誤爆」として、政治的には綺麗に整理された。
現場を生き抜いた帝国兵は誰一人としてその名称を使わない。誰が呼び始めたのか、起きた事実の凄惨さを明確にするためか。彼らはその地獄を、ただ一言、こう呼ぶ。
『背裂きの血戦』と。
――そして、今。
絶対に背後をとられることを嫌うはずのその『壁』が、防衛のセオリーをすべて投げ捨てて、がら空きの中央平原に単身で立っている。
「おおおおおおおおおォォォォォッ!!」
ザンリードの口から、雷鳴のような雄叫びが爆ぜた。
罠だ。絶対に罠だ。裏で糸を引いている何者かが、わざとあの男を「餌」として最前線に置いたのに違いない。
だが、ザンリードの眼は完全に血走っていた。
(上等だ。……どんな悪魔の罠が口を開けていようと、その罠ごと貴様を食いちぎる!)
「全軍ッ! 突撃ィィィィッ!!」
「うおおおおおおおおっ!!」
総指揮官の狂熱に当てられ、王国の中央軍四千が地鳴りを上げて平原へ雪崩れ込む。
両翼の均衡が崩れ、中央が虚空へ向かって突進する。
ついに、リコーがコールウォー砦の周辺に仕掛けた「大地の罠」の口が、王国軍の主力へ向けて大きく開かれようとしていた。
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「アーッハッハッハ! 見てくださいムロヤ! 可愛い猪が突っ込んできましたよ! あちらでは電気ウナギが石ころを投げて遊んでいるようです! おや? 真ん中のサルが、顔を真っ赤にして何か叫んでいますよ? ああ、なんて愉快なんだ!」
コールウォー砦の暗がり。安全な観覧席から眼下の地獄を見下ろしながら、リコーは腹を抱えて歓喜の声を上げていた。
その瞳には、両軍の兵士たちが命を削り合う光景が、三流の喜劇にしか映っていない。
「ああ、我が軍の兵士がっ! 素晴らしい、今、宙を舞ったのは腕でしょうか、脚でしょうか、それとも頭でしょうか……!」
狂熱に浮かされるリコーの背後から、低く、這うような声がかけられた。
「……だまれ」
「おや?」
「正直、胸糞わりぃ……。ちょっと黙ってくれ」
吐き捨てるように言ったのは、傍らに控える男、ムロヤだった。血と泥に塗れた本物の死線を重んじる彼にとって、命を玩具のように嘲笑うリコーの態度は耐え難い嫌悪の対象でしかなかった。
「……そうですか」
リコーはぴたりと笑いを止め、本当に残念そうな、酷く芝居がかった仕草で俯いてみせた。
「さて。これ以上ふざけていると、本当にムロヤに嫌われてしまいそうです。……私からも、死者へ手向けを。この退屈な戦場に、極上の彩りをお送りするといたしましょう」
リコーは懐から、鈍い光を放つ『薄群青の魔力結晶』を取り出した。それは通常のものとは異なり、不吉な脈動を帯びているように見える。
彼はそれを両手で大事そうに包み込むと――一切の躊躇なく、粉々に握り砕いた。
パァンッ、と硬質な音が響く。
直後、不可視の重たい魔力の波が静かに、しかし確実に戦場全体へと伝播していった。大気が震え、足元の石畳が微かに鳴りを潜める。
ただならぬ気配を察知したムロヤが、思わず眉間を寄せて問うた。
「な、何が起きるんだ……?」
リコーは薄暗がりの中で、裂けたような三日月型の笑みを浮かべた。
その声は、どこまでも平坦で、無機質で、絶対的な悪意に満ちていた。
「決まっているでしょう」
「戦争ですよ、戦争」
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雄叫びを上げながら単騎で突貫していく自軍の大将に遅れをとるまいと、四千の重装歩兵たちが鋼の波となって地を蹴った。
だが、彼らが戦端を開かんと、さらに力強く一歩を踏み込んだその時だった。
――ズブッ。
「……?!」
突如として、前衛の兵士たちの足が不自然に深く沈み込んだ。
「な、なんだこれは!」
「足が、抜けないッ!?」
鋼の塊と化した兵士たちが、次々と前のめりに倒れ込む。広大な平原のあちらこちらで、強固だったはずの大地が突如として『液状化』を起こし、彼らの足を底なし沼のように飲み込み始めていたのだ。これこそが、リコーが仕込んでいた大地の罠だった。
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右翼、コスカの戦場。
足場を奪われることは、機動力を命とする騎馬隊にとって致命傷となる。
「コスカ様!」
「慌てないで! みんな、足場を見極めて!」
神速の将は即座に手綱を引き、被害を最小限に抑えるべく、泥濘に飲まれていない硬い地盤へと部下たちを的確に誘導する。
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左翼、アラカイの戦場。
重量のある防壁を展開していた重装歩兵たちへの被害は深刻だった。
「全員、その場から動くなッ!」
アラカイの鋭い怒号が飛ぶ。
「下手に暴れて沈み込めば、そのまま全身が埋まるぞ! 陣形を維持したまま待機しろ!」
彼は即座に行軍を停止させ、冷徹な状況判断で部隊の崩壊を防ぎ止めた。
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両翼の進軍が、大地そのものに足を食われて停止する。
罠は見事に機能した。リコーの思惑通り、王国軍の勢いはここで完全に泥に沈み、鈍るはずだった。
――しかし。中央。
罠の牙が最も深く突き刺さるはずの死地にあって。
「――だから、どうしたッ!!」
ザンリードは、止まらなかった。
泥に沈む足を、強靭な膂力で泥土ごと強引に引き抜く。
この程度の罠が何だというのか。足場が悪い戦場? 冗談ではない。彼がこれまで数多の死線を這いずり回ってきた中で、まともに足場の良い戦場など数えるほどしかなかった。
「おおおおおおおおおォォォォォッ!!」
泥濘と化した大地を、異常なまでの執念だけで蹴り砕く。
ザンリードの血走った眼は、目前の獲物しか捉えていない。彼は泥を巻き上げながら大跳躍し、全霊の怒りと怨念を乗せた凄まじい剣圧とともに、因縁の『壁』――バーナードの脳天へとその大剣を叩きつけた。
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