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第五話「コールウォー砦」

夕暮れ時のコールウォー砦。冷え込み始めた風が吹き抜ける回廊の片隅で、物資の積み下ろしに追われる二人の名もなき一般兵が、束の間の休息とばかりに腰を下ろしていた。


「……いよいよだな」

「あぁ。聞いたか? 右翼も左翼もそれぞれ千やそこらの魔導士が展開してやがる。この周辺だけで何千人って規模だ」

「おお……。それにしてもさ、この砦にだぞ? 俺たちみたいな守備・支援の連中も含めて、ここだけでざっと八百人くらいギッチリ張り付いてるんだぜ。懲りないよなあ、本当に」

「まあ、国境の要衝だからな。……って、ん?」


若い兵士は、ふと疑問に思ったように首をかしげ、そびえ立つ分厚い城壁と幾重にも張り巡らせた防壁を見上げた。


「……なあ、ここって『砦』だよな?」

「お?」

「あ、いや……。これだけの外壁があって、地下には何層も掘り抜かれた兵站壕があってさ。どう見たって教則本の『要塞』の図面そのものじゃないか。なんでこれを……」


古参兵は乾パンを飲み込み、若者の言葉を遮るようにフッと息を吐いた。


「ああ、言いたいことはわかった。だがな、ここは『要塞』とは呼んじゃいけないんだよ」

「……なんで?」

「……なんでだっけか」


古参兵は眉間にしわを寄せ、何かを思い出すように頭をかいた。上層部から徹底的に叩き込まれた規則だったはずだが、なぜそこまで厳しく言い聞かされていたのか、現場の末端である彼の頭ではうまく言葉にできない。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


王国の参謀本部。

青白い蝋燭の灯りが重苦しく照らす執務室で、王国の参謀の二人――階級章を重く鳴らす男たちが、広げられた詳細な作戦図を前にして押し黙っていた。


「……これで、件の『要塞』に対する攻略の目途が立ったか」


先に口を開いたのは、若い参謀の男だった。その声には、巨大な要塞を相手取る焦燥と、一歩も引けない緊張感が張り付いている。

だが、向かいに立つ参謀の男は、冷ややかな目を細めてピシャリとそれを遮った。


「言動を慎め。……あそこは『砦』だ。決して言い間違えるな」


「……何処の誰に気を使っているというのだ。現実を見ろ。誰の目にも、あれはれっきとした『要塞』だろうが」


若い参謀の低く抉るような言葉が、室内の空気をさらに凍らせた。

しかし、向かいに立つ参謀は微動だにせず、ただ硬質な声で返す。


「だからこそだ。机上の理屈で現実をごまかすなとは言わん。だが、あの軍事拠点を『要塞』と認めれば、我々が積み上げてきた大義名分の一切が瓦解する危険がある。……我々の言葉の綻び一つが、そのまま国家の死活問題に直結するのを忘れたか」


二人の間で張り詰めた空気が生まれたその瞬間――。


「少し危険な内容だな」


静かで、しかし部屋の空気を一瞬で入れ替えるような、底冷えする声が響いた。

凪いだ瞳を光らせ、参謀長リークライトが音もなく暗がりから歩み寄ってきたのだ。将校たちは反射的に言葉を飲み込み、慌てて背筋を伸ばして直立不動の姿勢をとった。


「閣下!」


リークライトは二人に一瞥もくれず、冷ややかに地図の一点を据えたまま、淡々と言い放った。


「コールウォーが要塞ならば、此度の遠征は『侵攻』と見なされ得る。……通商連盟に加盟している以上、『侵攻』はできない。王国は、帝国に『侵攻』していない。……そうだな?」


将校たちは冷や汗を拭うことも忘れ、深く頭を垂れた。


「はっ」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


王国の参謀本部が抱える底知れぬ重圧、そして「要塞」と呼ぶことを禁じられた政治的ジレンマの背後には、両国が何十年にもわたって積み重ねてきた、一歩も引けない外交的騙し合いの歴史があった。


もともと、コールウォー砦が建つリン平原の地は、どちらの国のものでもない完全な中立地点であり、コールウォーと呼ばれる場所にあったものは「ただの見張り小屋」にすぎなかった。

ある年のことだ。帝国側が周辺の治安維持を名目に、王国側へ「あの小屋の保守管理を我が方に任せてほしい」と申し出た。王国側はこれを受け入れ、両国協議の上でそれを「認める」という形をとった。


だが、それから数年後。

王国軍が別件で偵察に赴いた時、驚いた。そこにあったものはもはや小屋ではなく、武装を施された「砦」だったのだ。

王国が「約束が違う、これは何だ」と帝国に問い詰めると、帝国側は平然とこう答えた。

「何を言っている。見張り小屋の木材が老朽化したため、多少頑強に補修しただけだ。構造上の新規建築は一切していない」


納得がいかない王国は、次の外交協議の場で猛烈に抗議した。そして、あらゆる法制を使い、極めて泥臭くかつ狡猾な外交的手段を用いて、強引にその「保守管理権」を帝国から奪い取ってみせたのである。結果、その管理権は王国の手に渡り、帝国側は渋々それを認めざるを得なくなった。


それからさらに時は流れた。

今度は帝国軍の斥候がその地を訪れた時、言葉を失った。王国の手に渡ったその場所は、いつの間にか幾重もの外壁と地下兵站壕を備えた、まごうことなかれ「要塞」へと膨れ上がっていたからだ。

帝国が血相を変えて抗議すると、王国側はかつて帝国が使ったのと同じ、冷徹な笑みを浮かべて言い放った。

「何を言っている。昔からある古い防衛拠点の基礎を、少し頑強に補修したにすぎない。新規に造り直した部分など一切ない」


この終わりのない「補修」の応酬の末、両国は再び水面下で極めて外交的な密約を結んだ。

帝国は、王国と協議の末に「要塞」としての実態と、その所有権を事実上勝ち取った。しかし、その代わりとして通商連盟の手前、「これはあくまで『ただの砦』である」と主張し、王国もそれを表向きは認めることになった。


結果として、このコールウォー砦の「正式な所有権」と「実態の定義」は、現在にいたるまで両国間で係争中のまま棚上げにされている。


お互いに「相手が先に拡張したのだから、こちらが実効支配し直しても正当だ」と言い張り、しかし通商連盟の法に触れる「侵攻」や「新規築城の禁止」という首輪に怯えるあまり、誰もがその実態を「要塞」と呼ぶことができない。つまり、王国と帝国は、国際法上「戦争をしていない」。


大国の政治的騙し合いが生んだ虚構の要塞は、今や、両軍の兵士を丸ごと飲み込む巨大な墓穴へと変貌しようとしている。

読んでいただき、ありがとうございます。

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