第三幕 第一話「ネズミ」
第三幕始めます。書きたいように書いていこうと思います。
コールウォー砦。特務官補佐待機室。
「……くそっ!」
深夜、薄暗い部屋のベッドで突然跳ね起きたムロヤは、苛立ちに頭を掻き毟った。
壁の裏側から聞こえる絶え間ない音が、彼の神経をヤスリのように削り続けている。
本当に、次から次へとこの砦は問題ばかりだ。ムロヤはもう何日もまともな眠りにつけずにいた。その原因は、先日斥候からもたらされた「王国の大軍勢が砦に向け進軍中」という絶望的な報告――だけではない。
もっと直接的で、もっと密接で、極めて物理的な困難に直面していた。
ネズミが、うっとうしい。
翌朝。寝不足で目の下に濃い隈を作ったムロヤは、リコーの執務室を訪れ、重いため息とともに愚痴をこぼした。
「リコー。……例のネズミだがな」
報告書から顔を上げたリコーの目が、スゥッと細まる。
「……ムロヤ。『まだ』いる……そうおっしゃるのですね?」
「ああ。俺の作戦は失敗した」
ムロヤは顔をしかめながら、昨晩までの苦闘を語った。
「兵を動員して、壁の隙間という隙間に砕いたガラス片と石灰を詰め込み、通り道に等間隔で捕獲器を設置した。論理的で完璧な封鎖網のはずだった。……だが奴ら、数日でガラスを避けて別の穴を開けやがった。おまけに、致死量の毒を混ぜた干し肉を置いたが、ダメだ。効果があるのは最初だけですぐに素通りするようになった。…安全な糧食だけを選び抜いて、食い荒らしやがる」
そう、現在コールウォー砦は、階級の区別なくある重大な問題に直面していた。
『ネズミ(動物)』の大発生である。
笑い事ではない。極めて真面目な話であった。すでに前線では死体が山のように転がり、衛生状態は最悪だ。そこへ来てこの繁殖力である。兵の食糧が脅かされるだけでなく、実際に伝染性の疾患に罹患して熱を出す兵士まで出始めている有様だった。敵軍とぶつかる前に、砦がネズミの病気で自滅しかねない。
ムロヤが本物の動物の話をしているのだと気づいたリコーは、黒手袋で口元を覆い、クスクスと肩を揺らして笑い出した。
「笑い事じゃないぞ。こんなことでお前を頼るのも業腹だが……なんとかならないかね、リコー」
軍事的な作戦ではなく、まさかネズミ捕りの相談をすることになろうとは。ムロヤは自身の情けなさに眉間を揉んだ。
対するリコーは、報告書をパタンと閉じ、まるで最高に面白いオモチャを与えられた子供のように、三日月の笑みを限界まで深めた。
「ふむ……。では、ちょっと試したい方法があります。それで、ネズミには今度こそご退場願うとしましょう」
翌日。リコーの執務室を訪れたムロヤが手渡されたのは、コルク栓の小瓶だった。中には米粒ほどの大きさの青い魔力結晶が、ジャラ、ジャラと音を立て大量に詰まっている。
「……なんだこれは。お前が作ったにしては、随分と小さいな」
魔力結晶は、魔導士ならば誰でも作り出せる魔術や魔道具の触媒だ。しかし、この大きさでは大した魔術の役には立たないだろう。
「これは殺鼠剤ですよ、ムロヤ」
「……これが?」
訝しむムロヤの前で、リコーは瓶を軽く振って音を鳴らした。
「ええ。これら一つ一つに術式を刻んでいます」
「こ、これ全部にか!?」
「極めて簡単な術式なので、ムロヤにも今度教えてあげますよ。まずは、この、ネズミの大好きな匂いを放つように作った結晶を、砦のあちらこちらにばら撒くとしましょう。ネズミさんたち全てに行き渡るように、ね」
さらに数日後。
「……相変わらずネズミは元気に走り回っているが、結晶は行き渡ったと思うぞ。あんな小石をせっせと巣に持ち帰る物好きは、あいつらしかいないだろうからな」
目の下の隈をさらに濃くしたムロヤは、極めて不機嫌そうに報告した。未だ寝不足は解消されていない。
「それで、どうするんだ? 今から遠隔で毒化でもするのか? だが、これだけ拡散した、大量の魔力結晶を毒化させるなんて……」
「ムロヤ、そんな高度な術式行使ができるのは、亡くなった先帝くらいなものです」
リコーは呆れたように首を振った。
「では、ここで私が刻んだ術式を発動するとしましょう」
「ん? 術式なら、ネズミを誘き寄せるための『匂いを放つ』術式を刻んだんじゃなかったのか?」
「ハハハ。そんなもの、わざわざ術式に頼る必要がないでしょう。魔力の無駄遣いです」
リコーは瓶の底に残っていた結晶を一つ指で摘み、事も無げに言った。
「外の平原に転がっている死体から、一番脂の乗った内臓と骨髄を拝借しまして。すり潰して煮詰め、特製のオイルを作りました。その特性オイルに漬け込んで、物理的に匂いを染み込ませただけです。ネズミさんの大好きな濃密な腐肉と血の臭いです。いちおう試しましたが、狂ったように飛びついて丸呑みするほど、喜んでいただけましたよ」
ムロヤの顔がサッと青ざめる。自分がここ数日間、素手でばら撒いていた小石の正体を知り、強烈な吐き気が込み上げてきた。
「私が刻んだ術式は一つだけ。『同質の魔力波長に触れると破裂する』。これだけです」
言うなり、リコーは懐から栗ほどの大きさの魔力結晶――小瓶の中身と同じ青色をした結晶の大きさ違い――を取り出すと、無造作に床へ落とし、ブーツの踵で容赦なく踏み砕いた。
パァンッ!と、乾いた音が室内に響く。
目に見えない魔力の穏やかな波が、さざ波のように砦全体へと広がっていくのを感じた。
最初は、何も起きなかった。大きな爆発音も、光もない。
だが数秒後。
壁の裏側から、「プスッ」「パンッ」というくぐもった小さな破裂音に混じり、磨いた石を爪でひっかくような、微小だが生々しい悲鳴が連続して聞こえ始めた。
チュァッ、ピギッ、という断末魔が、砦のあちこちから聞こえ、伝播していく。
「知ってますか、ムロヤ。魔力結晶は、それ自体に強力な殺菌作用がありますが……内側から勢いよく破裂させると、その成分が隅々まで飛散して、もっと効果が高まるんですよ。一粒が弾ければ、その波長を吸って隣も弾ける。実に効率的でしょう」
壁の中から聞こえていた不快な足音は、完全に沈黙していた。
この日を境に、砦内で生きたネズミの姿を見た者はいない。壁の隙間から、腹を内側から吹き飛ばされた凄惨な肉片が見つけ、悲鳴を上げる兵士の姿はいたが。
「え、えげつねぇ……」
ドン引きし、顔を引き攣らせるムロヤをよそに、リコーは極めて上機嫌に三日月の笑みを浮かべていた。
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