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第十話「楔」

「腑抜けたツラを晒すなァァァッ!!!」


執務室の空気をビリビリと震わせる、雷鳴のような怒号。

顔を上げたバーナードの目に映ったのは、喜びでも労いでもなく、烈火の如き怒りを燃え上がらせる父の姿だった。


老将軍はズカズカと歩み寄り、机に拳を激しく叩きつけた。


「貴様の顔を見ればわかる! 『自分は無能だ』『不当な評価に耐えられない』……そんな安い感傷に浸り、逃げ出そうとしているのだろう!!」


「お、親父殿……しかし、俺は……!」


「黙れ!!」


父は、逃げ腰の息子を射抜くような鋭い眼光で見据え、軍人としての「在り方」を、その魂に直接叩き込むように言い放った。


「軍人とは、己の矜持やちっぽけな良心を満たすために存在するのではない! 国家という巨大な機構の盾として、たとえ泥水をすすり、理不尽な汚名や虚飾を被ろうとも、与えられた任地に文字通り死ぬまでしがみつく者のことを言うのだ!!」


その言葉は、リコーからは逆立ちしてもでてこない、純粋な軍人としての重みに満ちていた。


「貴様が誰に利用されようが、誰の書いた脚本で動かされようが関係ない! 本国が貴様を英雄と呼んで資材を送ったのなら、貴様は這いつくばってでもその英雄を演じ切り、この砦を死守せねばならんのだ!!」


「……ッ!」


「己のちっぽけな自尊心を守るために『職を辞す』だと? そんなものは高潔でも何でもない、ただの敵前逃亡だ!!」


父の言葉は、バーナードがすがりつこうとしていた「辞職」という名の甘い逃げ道を、木端微塵に粉砕した。

個人の感情など、国家の防衛線の前では塵芥に等しい。真の無能とは、真実を見抜けなかったことではなく、与えられた役割を途中で投げ出すことなのだと。


老将軍の荒々しい息遣いだけが、静まり返った執務室に響いていた。


バーナードは顔を上げ、目の前に立つ父親を真っ直ぐに見つめた。

烈火のごとく怒鳴り散らすその瞳の奥にあるものを、今の彼なら痛いほど理解できた。軍のために、国家のために、そして他でもない――心が折れかけている息子である自分のために、老体に鞭打って帝都から駆けつけてくれたのだ。

熱した鋼の如く強い、本物の『漢』の姿がそこにあった。


不意に、バーナードの脳裏に幼少期の記憶が蘇る。

常に第一線で活躍し続けた偉大な父の広い背中。それを気高く、優しく支え続けた偉大な母の微笑み。

幼き日のバーナードは、両親のその姿を見上げ、小さな胸に強く誓ったはずだった。


――『自分もいつか、父上のように強靭な帝国の盾になるのだ』と。


(……そうだ。俺は何を思い上がっていたのだ)

安っぽい自尊心など、とうの昔に捨てるべきだったのだ。自分が無能であろうと、他人の書いた台本で踊らされていようと、この命がコールウォー砦の防衛という『任務』に寄与するのなら、泥水をすすってでも盾であり続けるべきなのだ。


バーナードの手から、くしゃくしゃになった辞表が床へと滑り落ちた。

憑き物が落ちたような、清々しくも力強い顔つきを取り戻した彼は、深く、深く頭を下げる。


「……親父殿。ご面倒をおかけしました」


息子の声から一切の迷いが消え去ったことを察した老将軍は、一つ大きく鼻を鳴らし、短く、力強く応えた。


「うむ。精進せい」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


かくして、バーナードの辞職は、厳格なる父の鉄拳指導によって回避された。

砦は再び活気を取り戻し、強固な防衛拠点としての機能を取り戻していくことだろう。結果だけを見れば、これ以上ないほどの大団円である。


――さて。

ここで一つの、極めて合理的な疑問が残る。


帝都からこの最前線の砦までは、馬を限界まで飛ばしても数日はかかる距離である。

にも関わらず、なぜバーナードの父親は、実の息子が完全に心を折り、「辞表を握りしめて部屋を出ようとしたその数秒前」という、これ以上ないほど完璧なタイミングで執務室に飛び込んでこられたのか。

そもそも、公式報告書では「見事工作員を討ち取った英雄」として処理されているはずのバーナードが、その実は『自己嫌悪のどん底に陥って辞職しかけている』という正確な心理状態を、遠く離れた帝都にいる父がなぜ知っていたのか。


一体、誰の策略なのか。

誰が、老将軍の「厳格だが裏では人一倍息子思い」という性質を計算し尽くし、絶妙なタイミングで砦に到着するよう、本国へ書簡を送りつけたのか。


「いやぁ、やはり血の繋がった親子の絆というものは、実に美しく、そして扱いやすいですね。」


砦の監視櫓の頂上。

吹き抜ける冷たい風の中で、黒手袋の指先で駒を転がしながら、リコー・タディーカは愉快そうに嗤っていた。


「これで、この砦の指揮官は、文字通り死ぬまでこの盤上に張り付いてくれることでしょう。……さて、ムロヤ」


傍らの副官は胃を押さえ、親子の情を道具にする行為への生理的嫌悪を隠せずにいた。リコーは、その拒絶を愉しむように三日月の笑みを浮かべた。


「舞台は整いました。ですが、完璧を期すならもう一押し。……次はあの工作員の巣穴を利用し、王国へ極上の毒を流し込む、楽しい作業と参りましょう」

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