第八話「ぬくもり」
光に晒された、王国の工作員の男は思わず振り返った。
寝台の上に横たわり、自身が今しがた喉を切り裂いたはずの「男」――それは、血抜きされた、妙に暖かい人型に成形された『豚の死肉』の塊であった。
「……ッ!」
男が硬直したその瞬間、愉悦に満ちた、しかし攻めるような声が響いた。
「魔導反応に頼りすぎです。長すぎる潜伏期間が仇となりましたかね」
リコーは、まるで手品を披露した奇術師のように優雅に両手を広げた。
「優秀な工作員であれば、『魔力探知』を過信せず、自分の耳と鼻こそを信じるべきでした。…まあ、今回は、我々は最初からこの部屋に隠れていたのですから、若干インチキではありますが。温度くらいは、見るべきでしょうに。わざわざ、ただの肉の塊を人肌で温めた、ムロヤの徒労を思うと、あまりの哀れさに歌でも捧げてしまいたくなる。」
リコーの視線が、青ざめた顔のムロヤへと向けられる。
「ムロヤ。ああ、ムロヤよ。あまりの人肌恋しさに、厨房から夕食用の肉を拝借して、抱きしめてしまったのですね。私情を挟むのは私の主義ではありませんが……今晩は、一緒に寝てあげましょうか?」
「お前……」
ムロヤは震える声で何かを言いかけたが、次の瞬間、事態は一瞬で動いた。
己が完璧に嵌められたことを悟った工作員の男が、一切の感情を交えることなく、すぐさま反転して窓へと跳躍しようとしたのだ。捕縛される前に自死するか、あるいは逃走するか。極限状態における、工作員としての最適解。
だが、リコーの判断はそれよりも遥かに速く、そして無慈悲だった。
「――任務、ご苦労様でした」
リコーが黒手袋の指先を軽く弾いた刹那。
音も、詠唱もなく放たれた魔力の石針が、空中に跳び上がった男の喉と、頭部の中心を正確に貫いた。
「ガ、ッ……」
男の体は痙攣すらせず、糸の切れた操り人形のように床へと落下し、どさりと鈍い音を立てて崩れた。
「……なっ!?」
ムロヤは目を剥き、胃の痛みも忘れて叫んだ。
「リコー! 貴様、なぜ殺した!? 生け捕りにして情報を引き出せば、王国の内部事情や通信経路が――」
「必要ありませんよ、そんなもの」
リコーは冷たく吐き捨てた。
「黒幕は分かっています。これ以上、末端の使い捨ての駒から何を聞き出せと言うのですか。ここで殺す。それが最も合理的です」
リコーは初めから、こうすると決めていた。最初からこの男の死は盤上を彩るための、次の舞台のための準備の一環であった。
そして、その氷のような問答の傍らで。
囮として自身の部屋を提供し、部屋の隅で震えながら事態を見守っていた兵士――昼間、食堂で指揮官への忠義を熱く語っていた男が、床に転がる王国工作員の死顔を見て、膝から崩れ落ちた。
「嘘、だろ……」
男の声は、乾ききった悲鳴のように掠れていた。
「お前……。先週、一緒に国元の家族に手紙を……。なんで、お前が……っ」
魔導ランプの明かりに照らされた、工作員の顔。それは、過酷な砦の修復作業を共にこなし、愚痴をこぼし合い、同じ釜の飯を食ってきたはずの、親しい同僚の顔だった。
無残に転がるかつての友の死骸と、それを冷徹に見下ろす帝国の中級魔導士。
兵士の絶望的な呟きだけが、血の匂いが漂い始めた夜の部屋に、虚しく吸い込まれていった。
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バーナードは、完全に呆気に取られていた。
リコーの副官、ムロヤの口から重々しく語られた今回の顛末は、にわかには信じがたい内容だった。
自分の足元に、王国の工作員が潜んでいた。
気付かなかった。いや、気付けるはずがなかったのだ。工作員の死体の検分に立ち会ったバーナードは、その顔をよく知っていた。
「最近、妹が結婚しましてね。家に戻っても新婚の邪魔者扱いされるだけですから」と、そんな理由で照れくさそうに笑い、この過酷なコールウォー砦に残ってくれた、心優しい男。彼が、王国の工作員だったというのか。
当然、あの薄気味悪い中級魔導士の言うことなど、欠片も信用してはいない。だが、バーナードを心から尊敬し、慕ってくれている部下のラックが、自分に嘘を吐くなど絶対にあり得ないことくらい分かっている。
工作員は、確かにいたのだ。
ならば、砦の破壊を招き、狂ったように瓦礫を調べ、兵士を無闇に振り回したあの全ての異常行動は――。
「ええ。工作員を炙り出すための、全ては私なりの『演技』だったというわけです。どうか、お許しください。すべては帝国のための作戦だったのです」
胸に手を当て、酷くわざとらしく、芝居めいた一礼をするリコー。
その言葉を裏付けるかのように、事態は急転直下で動き出した。
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