第五話「追及」
ガシャァァァァァンッ!!
木製の簡易卓が、宙を舞って壁に激突し、木端微塵に砕け散った。
卓上に積まれていた被害報告書や資材の目録が、まるで雪のように会議室の中を舞う。
「……もう一度、言ってみろ」
砦の最高指揮官バーナード・ヘインは、血走った両眼を見開き、額に何本もの太い青筋を浮かび上がらせていた。その声は、地獄の底から響いてくるような、低く、危険な震えを帯びている。
だが、その怒りの矛先であるリコー・タディーカは、舞い散る書類を優雅に避けながら、まるで小鳥の囀りでも聞いたかのように小首を傾げた。
「おや? 聴こえませんでしたか?」
リコーは、三日月のように口元を吊り上げる。
「ですから、この砦の兵士を『少し』借り受けたいのです。そうですね……砦の修復作業もお忙しいでしょうし、無理は言いません。手隙の者を、ざっと100人ほどで構いませんよ」
(……手隙の者が、100人……!?)
壁際で控えていた副官のムロヤは、胃を激しく締め付けられるような痛みに顔を歪めた。
東門が吹き飛び、脱走兵が相次ぐこの極限状態の砦において、「手隙の兵士」などただの一人もいるはずがない。全員が泥まみれになって石を運び、防衛線の穴埋めに必死になっているのだ。
ムロヤは、目の前のバーナード指揮官が今この瞬間に血管をぶち切らせて憤死していないことが、神の与えた奇跡だと本気で思った。
「タディーカ……貴様ぁ……ッ!」
バーナードの両拳が、ギリギリと骨の軋む音を立てた。
バーナードは気づいていた。もし目の前の、この薄気味悪い中級魔導士が次に一言でも喋った瞬間、自分は間違いなく軍法会議も国家の行く末もすべて投げ捨てて、腰の剣を抜き放ち、その首を刎ね飛ばしてしまうだろうと。
自分を抑え切る自信など、とうの昔に消え失せていた。
そんな限界を超えた指揮官の殺意を前にしても、リコーは一切悪びれることなく、むしろその張り詰めた空気を極上の美酒を楽しむように、再び滑らかな唇を開いた。
「まあまあ、話は最後まで——」
「失礼いたしますッ!!!」
ダァァァン!! と、靴底で床を強く踏み鳴らす音が響いた。
バーナードの理性が完全に焼き切れるコンマ一秒前。
ムロヤがバネ仕掛けのように跳ね上がり、リコーの黒い外套の襟首を力任せに引っ掴むと、そのまま脱兎のごとく会議室を飛び出したのだ。
「あ、コラ、待て! 逃げるなタディーカァァァッ!!」
背後から、バーナードの咆哮と物が手当たり次第に投げつけられる破壊音が響き渡る。
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「はぁっ……はぁっ……!」
砦の薄暗い廊下の片隅まで逃げ延びたムロヤは、膝に手をつき、肺が破れんばかりに荒い息を吐いていた。
「乱暴ですね、ムロヤ。外套に皺が寄ってしまったではありませんか」
襟首を掴まれて引きずり出されたというのに、リコーはまるで散歩の途中で少し風に吹かれた程度にしか思っていない様子で、黒手袋でパンパンと自身の服の埃を払った。
不満を口にしつつも、その顔にははっきりと、この混乱しきった状況を底心から愉しむ笑みが張り付いている。
「ふざけ、るな……ッ! 俺がお前を引っ張り出さなかったら、お前、指揮官殿に首を落とされてたぞ……!」
ムロヤは胃を押さえながら、脂汗の浮かぶ顔をリコーに向けた。
「この状況で……砦の兵士を100人よこせだと!? 正気か!? そもそも、兵士を借りて何をするつもりなんだ!?」
息も絶え絶えに尋ねるムロヤに対し、リコーは目を細め、廊下の窓から見えるリン平原の北——つまり、彼らが属する帝国側の空を見据えて、事も無げに言った。
「まだ誰かわかってないんですよねぇ」
リコーは窓の外、帝国の陣地が広がる北の空から視線を戻すと、ひどく面白がるような声音で唐突にそう呟いた。
「……何の話だ?」
胃の痛みを堪えながら、ムロヤは顔をしかめた。砦の修復に追われる指揮官から100人もの兵士を強引に借り受けようとしたことと、その言葉がどう繋がるのか見当もつかない。
リコーは三日月の笑みを深め、楽しげに囁いた。
「『お喋り好き』、ですよ。この砦にいます。今もね」
「……?!」
「司令部は、やはり、完璧でした。ジグタイト閣下にも、不自然な点はなかった。最初の補給の時、この砦に『リコー・タディーカ』がくることを知っていたのは、この砦の人員だけです」
ムロヤの心臓が、嫌な音を立てて大きく跳ねた。
お喋り好き。それはつまり、この帝国のいずこかに潜伏し、王国へ機密情報を流していた「裏切り者」——帝国軍内のネズミのことだ。
戦力ー結果的には推定『勇者』ーをこの砦へ誘き寄せるため、リコーがあの時、敢えて泳がせ、利用した情報源。推定『勇者』を仕留め損ねた今、その工作員を放置しておくのは致命的な危険を伴う。
「あ、あの混乱だぞ……!」
ムロヤは必死に反論を探した。
「砦にいたんだとしたらだ!奴の、あの理不尽な襲撃に、あの『遺産』の暴走だ! 砦の東半分が文字通り吹き飛んだんだ、そのネズミだって巻き添えになって瓦礫の下で死んだのでは……?」
ムロヤの希望的観測を聞いたリコーは、可笑しくてたまらないといった様子で、くすくすと肩を揺らした。
「いやぁー、ムロヤ。あなた、自分で言っててどう思います?」
「…………」
小馬鹿にしたようなリコーの問いかけに、しかし、ムロヤは言葉を詰まらせた。
(……そうだ。ネズミは王国の中枢と直接やり取りしている。加えて、今なお、全く違和感を持たれずにここに潜伏しているんだ。狡猾で優秀な工作員が、ただの巻き添えを食らって、間抜けに死ぬはずがない)
生存と潜伏に長けた優秀なネズミほど、崩れる建物や沈む船の気配を誰よりも早く察知し、確実に安全圏へと逃げおおせているものだ。
「……有り得ない、か」
ムロヤは自身の甘い考えを打ち消し、重く、苦しげな溜息を吐き出した。
裏切り者は生きている。そして、未だ誰なのか特定できていない。しかし、この砦にいることは確定。
リコーの脳内ではすでに、そのネズミを炙り出すための、血生臭く悍ましい盤上が組み上がっているのだろう。先ほどの「100人の兵士」は、その盤上に並べるためのただの餌か。
ムロヤは乾いた喉を鳴らし、恐る恐る、底知れぬ笑顔の同窓生に尋ねた。
「……どうやって、探す?」
読んでいただき、感謝します。




