第四話「残滓」
揺らめく魔導ランプの灯りが、薄暗い天幕の内部を頼りなく照らしている。
粗末な野戦用の机に向かい、リコー・タディーカは一人、静寂の中で思考の海深くへと潜っていた。
今日、彼が旧東門のガラス化した残骸で執拗に調べていたもの。それは、そこで起動し、役割を終えた先帝の遺産――『毒の魔道具』の残滓だった。
だが、結果として、『毒の魔道具』の残滓はなかった。完全に消失していたのだ。
リコーは本来、物質というものに執着を持たない男である。
目的を達成するための道具は、使い潰されるために存在する。たとえそれが、彼が何よりも崇拝する偉大なる先代皇帝の遺産であったとしても、自らの描いた芸術を完成させるという至上の目的を果たして消え去ったのなら、それでいい。そこに感傷はない。
しかし――。
あそこまで高密度に圧縮された魔力が、ただの僅かな痕跡すら残さず、綺麗さっぱり消え失せているという事実には、流石のリコーも一抹の寂しさを禁じ得なかった。
そして何より、決定的な不自然さを感じていた。
(奴の放った『虚空断裂』とやらが、何らかの作用を及ぼした結果か? ……いや。だとしても、呪いの性質を帯びた魔力が、周囲の大地に微塵も染み込まずに消滅するなど、魔導学的にあり得ない)
机の上で腕を組み、ランプの魔導火を見つめるリコーの脳髄が、ゆるゆる回転し続ける。
奴の肉体に起きた変調は、どうだったか。あの動けないはずの少女は、なぜ動けたのか。転移の魔道具。あの瞬間、空中に描かれた魔術式は、あれが転移だとすれば。そして、毒は、先帝の想いは、本当に消えたのだろうか。
その時、天幕の入り口がガサリと衣擦れの音を立てた。
「……リコー。起きてるか」
ひどく疲労しきった声とともに、副官のムロヤが天幕の中へ入ってきた。
彼は魔導ランタンを片手に提げ、もう片方の手で痛む胃のあたりをさすっている。
「ええ、起きていますよ。ムロヤ」
リコーが思考の海から浮上し、微笑んで振り返ると、ムロヤは重い溜息を吐き出しながら報告した。
「砦の指揮官殿に再度掛け合ってきたが……案の定、ダメだった。やはり、我々に対する砦内の部屋の使用許可は下りなかったよ」
昼間、砦の中庭でリコーに完全に無視され、面子を丸潰れにされた指揮官の怒りは尋常ではなかったらしい。「あのふざけた中級魔導士に貸す部屋など、この砦には一室たりともない! 平原の野風にでも吹かれて凍えていろ!」と、文字通り門前払いを食らったのだ。
「やれやれ……。お前のせいで、結局割を食うのは俺の胃袋だ。しばらくは、このすきま風を枕にして寝泊まりするしかないぞ」
恨みがましく愚痴をこぼすムロヤ。
しかし、リコーはそんな現実的な住環境の苦労など、微塵も意に介していなかった。
「そうですか。それはご苦労様でした、ムロヤ」
リコーはランプの火を見つめたまま、まるで他人事のように薄く笑う。
すきま風の吹く天幕だろうが、豪奢な貴族の館だろうが、彼には何も関係がなかった。
「まあ、良いではありませんか。あの指揮官の足音を聞かずに済む分、ここは静かで、思考を整理するにはうってつけの場所ですよ」
リコーの三日月のような笑みを見たムロヤは、「……そう言うと思ったよ」と頭を抱え、入り口近くにある粗末な寝台にどっかりと腰を下ろした。
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時は、リコーが再び砦にやってくる日の数日前にさかのぼる。
「このコールウォー砦は、帝国と王国の喉元を握る、紛うことなき絶対の要衝である!」
砦の最高指揮官、バーナード・ヘインは、かつて赴任の挨拶でそう高らかに宣言した。
代々軍人の家系に生まれ、国家防衛の要を任される指揮官の任を賜ったこと。それは彼にとって武人としての誉れであり、まさに本懐であった。
「我は帝国軍人! 胸を張り、命に代えてもこの職務を遂行する!」
彼は熱血の士だった。部下に厳しくも情に厚く、毎朝誰よりも早く起きて城壁を見回り、砦の強固な防衛体制を己の誇りとしていた。
平和な日々が続くことを願いながらも、いざという時は王国軍をこの堅牢な石壁で跳ね返してみせると、心に誓って。
――そう、誓っていたのだ。
あの日までは。
『じゃあ、ちょっと通るねー』
何処からともなく、常識の枠を完全に逸脱した王国の化け物が、彼が手塩にかけて整備した自慢の東門を、まるで薄い焼き菓子でも叩き割るかのように、一撃で木端微塵にぶっ壊した。
「やめろッ!!」
バーナードの悲鳴が平原に響く。
だが、化け物の暴力は止まらない。
『あ、ここ邪魔』
ドガァァン!!
「やめてくれェェッ!! 監視櫓がぁぁッ!!」
『これもいらないや』
ズガァァン!!
「あ、あああぁぁぁ……ッ!! 備蓄庫ぉぉぉ……!!」
なんかもう、めちゃくちゃに壊された。
手隙に積んだ石も、緻密に計算された防衛機構も、すべてが圧倒的な理不尽の前に紙屑のように散っていった。
そして、それに輪をかけて地獄だったのが、地下から現れた『先帝の遺産』たる異形である。
『ギィィィ、アァァァッ!!』
ドシャァァン!!
「や、やめろ……お前は味方のはずだろうが……! なんでお前まで砦を壊すんだ……!」
王国の化け物を狙った異形の攻撃の余波で、バーナードが愛した砦の石壁が、瓦礫となって吹き飛んでいく。
壊した。
壊した。
壊した。
王国の化け物も、帝国の遺産も、双方が競い合うようにバーナードの「誇り」を粉々に粉砕していった。
そして、極めつけは。
『素晴らしい……! さあ、もっとやりましょう! 砦などいくら壊れても構わない! さあ!』
瓦礫の山の中央で、両手を広げて狂喜の笑い声を上げる自軍の中級魔導士、リコー・タディーカの姿。
「……リ、コォォォ……ッ!!」
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「……ハッ!?」
バーナード・ヘインは、自室の硬いベッドの上で、びっしょりと冷や汗をかいて跳ね起きた。
「……また、あの夢か……」
震える手で顔を覆う。
王国の化け物が去り、異形が消滅し、忌まわしい中級魔導士が帝都へ引き上げてから数日。バーナードの精神は限界まで削られていた。
東門はただの巨大な風穴と化し、夜になれば平原の冷たい風が容赦なく吹き込んでくる。兵士たちは王国の化け物から与えられた心の傷で士気を喪失し、夜逃げする者が後を絶たない。その上、本国からの資材増援は遅々として進まない。
まさに、八方塞がりの地獄。
「……指揮官殿、朝食をお持ちしました……お顔色が、ひどく悪いですが……」
部屋に入ってきた従兵の言葉に、バーナードは中空を見つめながら応えた。
「気にするな。……ただの、寝不足だ」
目の下には、濃い隈が刻み込まれている。
砦の最高指揮官、バーナード・ヘイン。数日後、彼の試練の日々が再び幕を開ける。
読んでいただき、感謝します。




