第三話「排斥」
王国と帝国、二つの大国を隔絶するように聳え立つギルレット大連峰。
一年を通して雪を抱くその険しい山々の中に、まるで神が巨大な手で山脈を東西に押し退けたかのような、不自然な「抜け道」が一箇所だけ存在する。
それが、リン平原である。
山脈の腹を乱暴にくり抜き、平らかに押し均したような特殊な盆地地形。人を拒む連峰にあって、唯一軍隊が侵入できるその通路は、南の王国と北の帝国を貫く一本道となっていた。
そして、その平原のど真ん中、両国の喉元に刺さる骨のように位置しているのが、コールウォー砦である。
もし、平和な時代であったなら、ここは両国を繋ぐ交易の要衝として、多様な文化と、富が交差する美しい都市として、どれほど栄えていたことだろうか。
血と泥に塗れた、躯に群がる黒い鳥だけが、ここを楽園だと感じているだろうか。
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帝国軍によるコールウォー砦の修復作業は、完全に難航していた。
無理もない。東門を吹き飛ばしたのは攻城兵器などではなく、物理法則を無視したわけのわからない理不尽な『力』そのものだ。幼い子どもが無思慮に抉り取ったような巨大な破口と、極彩色の魔力によってガラス化し、歪に隆起し硬化した大地。それらを前に、通常の石工や土木作業員は困り果て、まともな修復計画すら立てられずにいた。
そんな砦に、再び帝国からの補給物資を伴って、リコー・タディーカと副官のムロヤが到着した。
泥濘む砦の中庭に馬車が止まった直後だった。
血走った目で修復の指揮を執っていた砦の最高指揮官が、リコーの姿を認めるなり、周囲の目も憚らずに足早に詰め寄ってきた。
「……よくも、よくも抜け抜けと戻って来られたな、タディーカァッ!!」
指揮官の怒号が、冷たい風の吹く中庭に響き渡る。
彼は感情の限界を迎えていた。顔の色は土気色に濁り、リコーを指差す手はガタガタと震えている。
「貴様のせいだ! 貴様が東門を無駄に補強し、地下に得体の知れないバケモノを隠しなどしたから、あの王国の化け物が真っ直ぐにここへやって来たのだろうが!!」
唾を飛ばして喚き散らす指揮官を前に、リコーは黒い手袋の指先で自身の肩に落ちた埃を払うだけで、表情一つ変えなかった。その後ろで、ムロヤだけが青ざめた顔でオロオロと周囲の兵士たちの視線を気にしている。
「東門は使い物にならん! 兵たちの士気は崩壊し、脱走者が後を絶たん! だというのに、本国からの増援はゼロ! 貴様が持ってきた一握りの物資だけで、どうやってこの平原を、この穴だらけの砦を修復しろと言うのだ!!」
「……修復?」
感情のままに怒りをぶつける指揮官に対し、リコーはひどく不思議そうな顔をして小首を傾げた。
「なぜ、修復などしようとしているのです?」
「な、なに……?」
「私が今回お持ちしたのは、砦を『修復』するための物資ではありませんよ?」
リコーは薄く、三日月のような笑みを浮かべた。その眼差しは、目の前で激昂する指揮官を通り越し、南――スオスが逃げ帰った王国側の空へと向けられていた。
「この砦には、至宝の『残滓』があります。『修復』などしてしまっては、もったいない。穴が空いたのなら、空いたままで結構。むしろ好都合です。……私は『調査』のためにやってきましたもので」
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ムロヤという男は、本質的には頭の切れる男であった。
だが、特に学生時代においては、少々ばかり要領が悪かった。
魔力絶対主義を掲げ、魔法の才こそが人間の価値を決める帝国にあって、ムロヤには「三級魔導士」を名乗るための最低限の魔力すら備わっていなかった。結果として彼が取得できたのは、魔導士とは呼ばれない下働き——『魔導補士』という資格のみ。
その鬱屈した劣等感も一因だったのだろう。ある時、ムロヤは有力な貴族の学生と揉め事を起こした。進退窮まり、もはやこれまでかと絶望の淵に立たされた時期があった。
その時、圧倒的な手腕で彼を救い出し、破滅から掬い上げたのが、他でもないリコー・タディーカだったのである。
なぜリコーが自分を助けたのか、今でもムロヤにはわからない。だが、「恩知らず」にだけはなりたくなかった。
未だにこの狂気を孕んだ男の副官として胃を痛め、いつ首が飛ぶかもわからないこの「変わった同窓生」の行く末を心配しているのは、あの時の恩をまだ返しきれていないと、ムロヤ自身が固く信じているからだ。
信じているから、なのだが。
「……リコー」
ムロヤは胃の辺りを押さえながら、深いため息とともにその名を呟いた。
彼の視線の先で、リコーはひび割れ、完全に崩落した東門――いや、もはや門としての体を成していない「旧東門」の残骸の前にしゃがみ込み、何やら熱心に調べていた。
現場を調べること自体に、何か問題があるわけではない。
問題なのは、今、この旧東門で何が行われており、誰がその指揮を執っているかだ。
「貴様ぁっ! 私の話を聞いているのかタディーカッ!! なにが調査だっ!この砦の惨状をどう思っている!!」
砦の最高指揮官が、顔を紫に染め、唾を飛ばしながらなおも怒号を響かせている。ここは指揮官が自ら陣頭に立ち、必死に修復作業を進めようとしている最前線なのだ。
だが、リコーはそんな指揮官の怒りを完全にあしらっていた。
いや、あしらっているとすら言えないか。耳元で喚き散らす上官の怒号を、ただの環境音楽にし、調査に没頭しているのだ。
「……素晴らしい。これが、奴の魔力によって変質した大地……」
リコーは、推定『勇者』の理不尽な斬撃と魔力によってガラス化した瓦礫の断面を、まるで愛しい恋人の肌でも撫でるかのような、うっとりとした手つきでなぞっている。そこには、背後で血管をちぎれんばかりに怒り狂う指揮官の姿など、微塵も映っていなかった。
(このままでは、指揮官が憤死するか、我々が不敬罪で斬り捨てられるかのどちらかだ……)
指揮官の絶叫と、瓦礫と見つめ合うリコー。
そのあまりにもシュールで異様な光景を見つめながら、ムロヤは静かに考えていた。
恩は返さなければならない。
だが、この男に付き従った先にあるのは、恩を返すよりも先に、自分が真っ逆さまに地獄の底へと落ちる未来ではないのか。いや、すでに自分は、あの男が描く凄惨な盤上に、引き返せない駒として配置されてしまっているのではないか、と。
読んでいただき、感謝します。




